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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー正義なき戦争・アヘン戦争①

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白蓮教徒の乱

 清代中期には、領土も広がり、中国の人口は18世紀の100年間に1億数千万人から約3億人へとほぼ倍増した。しかし土地の不足による農民の貧困化や開墾による環境破壊が社会不安をうみだし、18世紀末には四川を中心とする新開地で白蓮教徒の乱がおこった。この反乱は10年近く続き、清朝財政を窮乏させた。

 一方、18世紀後半にヨーロッパ勢力が南北両面から東アジアに積極的な進出を始めたことは、清朝を中心とする従来の東アジアの国際秩序をゆるがせた。ロシアと清の間では、ネルチンスク条約やキャフタ条約に基づく国境での交易が行われていたが、ロシアはエカチェリーナ2世の使節ラクスマンを北海道の根室に派遣して日本との通商を求めるなど、極東での交易拡大をはかった。

マカートニー 
マカートニー

 1792年、イギリスはマカートニーを首席全権とする初めての中国訪問使節団を派遣した。総勢95名の使節団が搭乗する軍艦ライオン号は、9月21日にポーツマス軍港に近い停泊所を出航、大西洋・インド洋を経由した後、南シナ海・東シナ海を北上して、1793年7月24日、渤海湾にその勇姿を現した。

 マカートニー使節団派遣の主たる目的、それは中国と条約を締結して茶貿易を安定させることであった。

茶  
上流階級のティーパーティ 

 イギリスのアジア貿易を独占していた東インド会社の貿易船が、毛織物の販売を目的に中国に来航するようになるのは、17世紀後半のことである。期待に反して毛織物はほとんど売れなかったが、イギリスの中国貿易はその後、中国茶の輸入で発展していく。

 中国茶は17世紀中頃にイギリスに伝えられると、まず上流階級の間で、カリブ海の植民地からもたらされた砂糖を入れて飲まれるようになった。ついで茶(紅茶)は、しだいに庶民の間にも普及し、特に1785年に実施された減税法で茶の値段が安くなると、ポピュラーな飲み物としてイギリス人の生活に定着した。

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マンチェスター近郊の女工の昼休み

 上の絵にあるように、産業革命時代の女工たちは昼休みに茶を飲むようになった。絵のなかのほとんどの人が、ポットを持ってきている。こうして、イギリスは毎年、大量の茶を中国から輸入するようになる。

 このように、イギリスにとって中国は茶貿易の相手国として大変重要な存在となったが、その中国と一片の条約も締結していないことにイギリス政府は不安を感じていた。

 というのも。ヨーロッパにおいては三十年戦争を終結させたウェストファリア条約以来、二国間あるいは多国間の関係、つまり国際関係は条約に基づくというのが常識になっていたからである。マカートニー使節団の中国派遣も、こうした「条約体制」とでもいうべきヨーロッパの常識に基づいて決定された。

ロド 
華夷思想

 ヨーロッパの常識は皮肉にも、中国ではとんでもない非常識だった。中国を中心とする東アジアには、ヨーロッパの条約体制とは異なる「朝貢体制」が古くから存在していたからである。

 この朝貢体制を支える理念は、華夷【かい】思想(中華思想)という世界観である。世界は、その中心に位置して高い文化を誇る中華(中国)と、その周囲の野蛮な夷狄【いてき】(北狄【ほくてき】・南蛮・東夷・西戎【せいじゅう】)から成ると認識された。

 
こうした世界観に基づいて、中国周辺に位置する国々は、中国の王朝国家を宗主国とする属国として位置づけられた。属国の君主は中国の皇帝に臣従することによって初めて君主としての地位を承認された。(冊封【さくほう】)

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琉球の朝貢船(進貢船)

 また、属国の君主は宗主国たる中国王朝国家に定期的に朝貢使節を派遣し、朝貢品を献納した。これに対して中国皇帝は絹織物などを「回賜【かいし】)として朝貢国の君主らに下賜した。また、こうした朝貢に付随して中国の首都あるいは入国地点で民間レヴェルの交易も制限つきながら行われた。つまり、朝貢の関係は、朝貢貿易という一種の経済関係でもあった。

 このように中国の王朝国家と周辺諸国との間に、朝貢・冊封という政治・経済関係を結ぶ朝貢体制が成立していた。それが、中国を中心とする東アジアの常識だった。

 三跪九叩頭の礼
三跪九叩頭の礼

 したがって、条約締結を目的とするマカートニー使節団の派遣が、こうした東アジアの常識に対する挑戦だったことは明らかである。中国に上陸してまもなく、マカートニーはヨーロッパの常識が清朝中国には通用しないことを実感し始める。清朝皇帝に対する謁見儀礼の問題が発生したのである。

 朝貢使節は皇帝に謁見する際、「三跪九叩頭【さんききゅうこうとう】の礼」、すなわち3回ひざまづいて、その都度、3回(合計9回)頭を床につけるという、皇帝に対してのみ行う最敬礼をしなければならなかった。

 イギリスも清朝にとっては一つの朝貢国にすぎなかったから、マカートニー使節団は当然ながら朝貢使節として扱われた。そして、避暑のため熱河の離宮に滞在中の乾隆帝に謁見する際には、「三跪九叩頭の礼」をすることになると、マカートニーは清朝側から通告された。

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乾隆帝に謁見するマカートニー

 マカートニーが日記に詳しく記録したように、屈辱的であるとして「三跪九叩頭の礼」を拒否するイギリス側とあくまでも実施を求める清朝側のやり取りが続いた。結局、最後は乾隆帝が度量の広さを示し、イギリス流の片ひざをつくお辞儀での謁見が1793年9月14日に行われた。

乾隆帝 
乾隆帝

 なんとか謁見できたマカートニーも、主目的の条約締結についてはまったく相手にされず拒絶されてしまう。その点について乾隆帝はイギリス国王ジョージ3世に与えた勅諭のなかで次のように述べている。

 天朝の物産は豊かで無いものはなく、もともと外国産のものに頼って有無を通るず必要はない。ただ天朝に産する茶、陶器、生糸は西洋各国および汝の国の必需品であるから、恩恵を加え、マカオに洋行を開設して日用品を援助し、天朝の余沢に潤うことを認めているのである。にも拘わらず、今、汝の国の使節が定例に反することをいろいろと陳情するのでは、恩恵を遠人に加えて四夷を撫育するという天朝の意に対して無理解も甚だしいと言わなければならない。

 なお、イギリスが1816年に中国に派遣した第2回目のアマースト使節団も三跪九叩頭の礼を拒否した。当時の皇帝であった嘉慶帝があくまで三跪九叩頭の礼の実行を要求した結果、アマースト使節団は皇帝謁見も果たせず、この使節団派遣はまったく失敗に終わった。それから20年余り後にアヘン戦争が起こることになる。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/01/22 05:06 】

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