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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー正義なき戦争・アヘン戦争②

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アヘンを吸う中国人

 18世紀末にイギリスが中国に派遣したマカートニー使節団の主目的は条約を締結して茶貿易を安定させることだったが、じつはマカートニーには外相から次のような訓令も与えられていた。

 中国側からアヘン輸出の禁止を要求されたら、それに従え、ただし、その際にはアヘンの販路を他の地域に開拓しなければならない。

 実際には中国側からそうした要求は提出されなかったので、アヘン問題は交渉の対象にはならなかった。では、この訓令に登場するアヘンとは、イギリスの中国貿易にどう関係していたのだろうか。

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ロンドンのイギリス東インド会社

 イギリスの中国貿易は中国茶の輸入を中心に発展したが、その見返りとして輸出しようとした毛織物などは、あまり売れなかったから、イギリスのはその差額を銀で決済した。このように18世紀後半までのイギリスの中国貿易はイギリス側が一方的に中国茶を輸入する、いわゆる片貿易の状態にあった。

 ところが、18世紀後半にイギリスで産業革命が始まり国内での資金需要が高まると、毎年、輸入茶の支払いのため大量の銀を持ち出している東インド会社の中国貿易の在り方に対して、産業資本家や彼らの利益を代弁する議会の一部から批判が巻き起こった。こうして、東インド会社は銀に代わる決済手段を見いださねばならなくなった。

 窮地に立った東インド会社が目をつけたのが、インド産のアヘンである。
 
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ケシの子房(ケシ坊主)

 アヘンはケシの子房(いわゆるケシ坊主)から出る汁液が原料で、モルヒネを主成分とする麻薬である。人類とアヘンの関係はかなり古く、すでにギリシア時代の文献に登場し、精力剤・下痢止めとしてケシを食べたり、汁液を飲んだりしていた。薬用として使う分には問題がないが、これから取り上げる中国の場合は、アヘンの吸引であり、健康や経済の問題が生じる。

 通説によると、アヘンの吸引は比較的新しく、17世紀半ば、オランダの支配下にあったジャワ島で始まった。スモーキングという言葉から連想されるように、アメリカ大陸から世界に拡がったタバコと関係があり、最初はタバコにアヘンを混ぜて吸っていたようである。ついで、粘土状のアヘンを火にかざして出る煙をキセルで吸うようになった。

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骨と皮だけになったジャワ島のアヘン中毒者
 
 ジャワ島におけるアヘン吸引の風習は、17世紀中頃にやはりオランダ人の支配下に一時あった台湾を経由して、その対岸の福建省や広東省に伝えられたと考えられている。

 アヘン吸引の伝えられた17世紀中頃から約1世紀の間、中国にアヘンを運んだのはイギリス人ではなく、ポルトガル人である。ポルトガル商人はインド中部で生産されたアヘンをインド西海岸にあるポルトガルの植民地ゴア、ダマーンから積み出して、やはり当時、ポルトガルの事実上のであったマカオから中国側へ売り渡した。

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インドのケシ畑

 イギリスの東インド会社が目をつけたのは、こうした前史をもつアヘンであった。東インド会社はまず1773年に、インド植民地経営の根拠地ガンジス川下流域で生産されるアヘン、すなわちベンガル・アヘンを専売下に置いた。そして、1780年代から組織的に中国への販売に着手したのである。

 ところで、アヘンを実際に中国に輸送して販売したのは東インド会社ではなく、民間の商人であった。後述するように、当時、清朝中国はアヘン貿易を禁止していたからである。禁制品アヘンを販売した結果、茶を売ってもらえなくなることを東インド会社は恐れた。

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東インド会社のアヘン保管倉庫

 先に紹介したマカートニー宛の外相の訓令が、「中国側からのアヘン輸出禁止を要求されたら、それに従え」と指示した理由もそこにあった。また、18世紀末当時、ベンガル・アヘンの中国への年間流入量は約4000箱(40万人分)であったから、訓令が指示するように、中国に代わるアヘン販売市場を開拓することもまだ見込みがあった。

 ちなみに、アヘン戦争勃発の直前、1838年の流入量は約4万箱(400万人分)まで増大しており、それだけの市場を他地域に求めるのはもはや不可能になっていた。

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 それはさておき、こうして茶貿易の安定的継続を至上命令とされていた東インド会社は、カルカッタにおけるアヘン競売までを行い、あとは民間商人にゆだねたのである。

 この民間商人は地方貿易商人と呼ばれ、東インド会社からライセンスを得て、アジア域内に限って貿易を認められていたイギリス人やインド人の商人である。彼らはインド産のアヘンや棉花をカントン(広州のことだが、イギリス人はカントンと呼んだ。)で販売して銀を入手し、それを東インド会社のカントン財務局に払い込んで、東インド会社の為替手形を購入した。そして、東インド会社は彼らが払い込んだ銀で輸入茶の代金を払った。

 こうして、それまで片貿易だった中英貿易はm1780年代以降、イギリス、中国、インドを結ぶ、いわゆる「三角貿易」に再編された。端的に言えば、イギリスの中国貿易は、茶の輸入とアヘンの輸出だったのである。

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雍正帝

 清朝は1729年に雍正帝がアヘンの輸入を禁止して以来、アヘンを禁止する政策をとっていた。その禁止政策は大きく二つに分けることが出来る。一つは、アヘン貿易を禁止するもので、アヘンの流入を水際で防ごうとする政策である。仮にこれを「外禁」政策と呼ぼう。

 もう一つは、国内におけるアヘン関連諸行為、すなわち、アヘンの製造・販売・吸引、アヘン宿経営、アヘン吸引用キセルの製造・販売、アヘンの栽培などを禁止する政策である。これを「内禁」政策と呼ぶ。

 18世紀末以来、清朝は「外禁」と「内禁」の両政策でアヘンを禁止しようとしたが、その実効はなかなかあがらなかった。その理由を一言で言えば、官僚の腐敗につきる。まず、禁止政策を実施する立場の官僚、そして兵隊にアヘンの吸引者が少なくなかった。また、下級役人、兵隊がアヘン宿経営にかかわっていたことも指摘されている。

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カントンのファクトリー(夷館)

 もっとも問題なのは、「外禁」実施の最前線であるカントンの官僚・兵隊の腐敗である。カントン官僚は口ではアヘン貿易の禁止を唱えながら、実際には賄賂を得てアヘンの密輸を黙認していた。

 カントンにいた外国人が異口同音に述べており、アヘン1箱につき40ドルの黙認料が支払われていたという具体的な証言もある。こうして、カントンではアヘンはあたかも合法品であるかのよにう取引されていた。(つづく)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/01/26 05:16 】

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