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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールド=正義なき戦争・アヘン戦争④

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グラッドストン

 パーマストン外相は、カントン体制の打破を大義名分として、遠征軍の中国派遣を決定した。そのため、イギリス政府は遠征軍の中国派遣にともなう特別財政支出の議案を議会に提出する。

 議案はまず、下院で審議された。この時、のちに首相になるグラッドストンは、演説の中で次のように述べて戦争に反対した。

 その原因がこれほど不正義で、また、わが国にこれほど永遠の不名誉を残すことになる戦争を、私はこれまで聞いたことがないし、また、読んだこともない。……イギリス国旗は悪名高いアヘン密輸貿易を保護するために掲げられている。もし、イギリス国旗が今、中国の沿岸に掲げられているようにしか掲げられないならば、それを見るだけで我々は恐怖におののくだろう。

 イギリス国内には、このグラッドストン演説に代表される反アヘン輿論もかなりあったが、1840年4月7日、反対動議案は271票対262票、わずか9票差で否決され、政府案が可決された。ついで政府案は上院でも可決された。

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 ところで、議会での審議に先立って、遠征軍はすでに中国に向けて出発していた。インドで主力が編制された遠征軍の第1陣は、6月にカントン海域に到着した。以後、夏の終わりまでに中国海域に集結した遠征軍の陣容は、軍艦6隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻、陸軍約4000名である。

 遠征軍はカントンの海上封鎖を宣言してから北上し、7月5日には舟山島を占領、さらに北上して渤海湾に入り、8月9日に白河口沖に到着した。そして、パーマストン外相の中国宰相宛の書簡を清朝官憲に手渡して回答を求めた。


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林則徐

 この書簡の中でパーマストンは、引き渡したアヘン代価の賠償、中英両国の対等交際、海島の割譲、公行制度の廃止などを要求すると同時に、カントンにおける林則徐の行動を強く非難していた。

 さて、イギリス遠征軍が北京に近い渤海湾に出現したことに驚愕し、うろたえた道光帝は、書簡で強く非難されていた林則徐を罷免し、西域辺境の新疆イリに左遷した。そして、新たに欽差大臣に任命する琦善【きぜん】とカントンで交渉することをイギリス側に提案して同意を得た。

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道光帝

 しかし、カントンで行われた琦善とイギリス側の交渉も、香港島の割譲をめぐって決裂し、イギリス軍による虎門砲台の占領が知らされると、道光帝は1841年1月27日にイギリスに対して宣戦布告の上諭を発した。

 ついで、イギリス軍による香港島占領の報に接すると、琦善はその責任を問われて罷免され、財産を没収された。こうして、戦争は再開される。

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中国兵船を砲撃するネメシス号

 戦局は圧倒的な軍事力を誇るイギリス側の優勢のもとに推移した。特に、メネシス号をはじめとする東インド会社の武装汽船の活躍は、目をみはるものがあった。その経験から戦後、イギリス海軍は軍艦の汽走化に本格的に着手することになる。

 ところで、イギリス側に勝利をもたらした原因は、必ずしも軍事力だけではなかった。確かに個々の戦闘で清朝側が勝利を収めることは難しかっただろう。ただ、もし清朝が持久戦、ゲリラ戦に打って出たら、イギリス軍としても苦しい局面を迎えたはずである。

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中国のジャンク船を沈めていくイギリス海軍

 しかし、そうした作戦を清朝はとることが出来なかった。それは、清朝が漢民族ではなく、満州族が支配者の征服王朝だったからである。戦争の過程で、イギリスに協力する漢民族がかなりいた。清朝は彼らを「漢奸」と読んで嫌悪し、その存在を恐れた。

 勝てない戦争の続行が反乱を誘発して支配体制が動揺することを、満州族王朝たる清朝の中枢部は何よりも恐れていた。清朝にとって、真の敵はむしろ国内にあったのである。

ダウンロ 
イギリス軍による鎮江攻略

 こうして1842年7月21日、長江を遡航したイギリス軍が中国経済の大動脈とも言うべき大運河を、長江との合流点である鎮江で封鎖し、ついで、やや上流の南京に対する攻撃を最後通告すると、清朝は敗北を認めてイギリスとの和平交渉に入った。

 大運河封鎖の戦略上の重要性については、かのマカートニーが北京からの帰途、大運河を南下して鎮江を通過した時にすでに指摘していた。

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南京条約の調印

 和平交渉の結果、8月29日、南京沖の長江に碇泊するイギリス軍艦コーンウォーリス号上で、いわゆる南京条約が調印され、アヘン戦争は終決した。

 南京条約全13条の主な内容は、
①カントンに加えて厦門・福州・寧波・上海の計5港の開港とそこでの領事駐在。
②香港島の割譲。
③引き渡したアヘンの賠償金600万ドルの支払い。
④公行制度の廃止と公行の債務300万ドルの支払い。
⑤イギリスの戦費1200万ドルの支払い。
⑥イギリス軍に協力した漢奸として逮捕されている清朝臣民の釈放。
⑦中英国官憲の対等交渉。
などである。

 アヘン戦争の結果として、外国貿易を広州だけに限定し、特許商人組合の公行のみが貿易を行うというカントン体制は解体され、欧米諸国との関係は条約体制に改編される。しかも、それは厳密に言えば、不平等な条約体制であった。

ダウード 
旧英国駐上海領事館

 すなわち、南京条約に続いて1843年にイギリスと締結した五港通商章程、虎門塞追加条約、また、1844年におけるアメリカとの望厦条約、フランスとの黄埔条約は、協定関税(関税自主権の喪失)、領事裁判権(治外法権)、片務的最恵国待遇を規定する、いわゆる不平等条約であり、これによって清朝中国の主権は著しく侵害された。

 こうしてアヘン戦争に敗北した清朝中国は、イギリスを中心とする資本主義的な世界経済構造の中に国家主権を侵害された不平等な条件で組み込まれ始めた。そうした過程の出発点であったという意味で、アヘン戦争は中国近代史の起点とみなされている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/02/02 05:17 】

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