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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー神の子・洪秀全②

楊秀清 
楊秀清

 最初の布教から3年ほど経った1847年頃、桂平県の紫荊山を根拠地にして「拝上帝会」が正式に結成され、会員は約2000人になった。洪や馮と並んで幹部となった炭焼きの楊秀清【ようしゅうせい】や簫朝貴【しょうちょうき】は、この初期の入会者である。

 同じ幹部でも、韋昌輝【いしょうき】や石達開などは、有力な地主であった。

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 抗租・抗糧闘争

 地主は村の指導層であり、経済的には裕福であったが、清朝の厳しい税の取り立てに反発し、地方役人を憎む者が多かった。そこで、アヘン戦争の前後から、中国の各地で、私兵をかかえた地主と県の役人との武力抗争が続発した(これを「抗租・抗糧闘争」という)。上帝会はこういう地主にも働きかけた。本気で拝上帝教を信じない地主でも、反清朝の立場から参加する者があった。

 農民たちは「上帝を敬わないと蛇や虎に噛まれる。敬えば災難や病気を免れる」という上帝会の宣伝に惹かれ、また神像や仏像を破壊してもなんの祟りもないと分かると、安心して入会した。貧しい彼らに、俺たちは上帝のお力で平等になれるという信念が強まっていった。

十款天条 
「十款の天条」

 1850年に入ると、楊秀清や馮雲山ら少数の幹部たちは、新しい国をおこそうと遠謀を練り始めた。6月、各地の会衆はお触れにしたがって紫荊山の麓の金田村にぞくぞくと集まった。彼らは家や土地を売って手に入れた金や現物を公有の倉庫(聖庫)に納め、その上で一律平等に衣食を支給される、平等な共同生活を営み始めた。

 すでに会衆は、洪秀全が「モーセの十戒」にならってつくった、博打・殺人・飲酒・吸煙・姦淫などをいっさいしないという「十款の天条」を守る生活を始めており、金田村での共同生活も極めて厳しいものであった。

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金田蜂起

 金田村へは、貴県から、本地人と開墾地の所有権を争って敗れた3000余人の客家、1000余人の鉱夫、そのほか上海に貿易の中心が移ったことで物資輸送の仕事をなくした運送人たちが、平等な共同生活を頼ってやって来た。あわせてその数約1万人。

 このような形勢を見て、大地主は団錬と呼ぶ自警団を、政府は正規軍を派遣して金田村の包囲に取りかかった。これに対抗して上帝会は、会衆を年齢別・男女別に分けて軍団に編成し、蜂起の形勢を整えた。

 そして、洪秀全の36回目の誕生日である1851年1月11日(陰暦の1850年12月10日)、上帝会は正式に蜂起を宣言した。

 すべての人が太平を楽しめる新国家「太平天国」の建設に向かって、革命軍団は出発した。蜂起の直前、清軍のうちの数千が太平天国側に寝返ったが、そのほとんどが客家の出身者であったという。


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 太平天国軍(以下「太平軍」と記す)は北に向かった。9月、永安城を占領、ここで太平天王洪秀全のもとに、東王楊秀清、西王簫朝貴、南王馮雲山、北王韋昌輝、翼王石達開という最高指導部の陣容が整った。

 東王以下の5人の王は、それぞれ1万3000余人の兵士を率いる将軍であるが、楊秀清はヤハウェの、簫朝貴はイエスの託宣を伝える人物として、洪秀全に次ぐナンバー2、ナンバー3の権威を持った。

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岳州の戦い

 半年後、清軍の包囲を破って永安城から北上し、以後いくつもの城市を攻め落としてはすぐそこを離れ、湖南省を進んで洞庭湖に出た。そこから、1852年末、長江に通じる岳州を攻め、大量の武器弾薬と船を獲得した。これは、太平軍のその後の行動をきわめて有利にした。

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武昌の戦い  

 すでに湖南を北上する中で、清朝に反攻する他のいくつもの秘密結社(たとえば「天地会」など)が協力し、太平軍の軍勢は膨れ上がっていた。太平軍が長江の流れにのって翌1853年1月、漢陽・漢口・武昌のいわゆる武漢三鎮を占領した時には、総数50万にのぼった。

 ただ、見落とせないのは、この時までに洪秀全は、最初の同志・馮雲山と妹婿・簫朝貴が戦死したことで孤立しだし、ナンバー2の楊秀清の権力がますます強まったことである。後の内紛がここに芽生えた。

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南京城玄武門

 2月、太平軍は水陸両路に分かれて武昌をたち、わずか3週間で南京城下に殺到した。

 太平軍が進撃して来ると、民衆はどこでもこれを歓迎し、日頃の恨みをはらすのだと、県庁や質屋に集団で押しかけ、放火・物品略奪を行ったり、あるいは牢獄の囚人を救い出したりした。また抗租・抗糧闘争が燃え上がり、地主に対する小作(佃戸)の反抗が激しくなった。

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太平天国軍

 他方、太平軍の軍規は厳しく、民家に侵入して略奪したり飯を炊かせたり、あるいは荷物を運ばせたりした者は、上帝への反逆として処刑された。夫といえども妻のいる女子軍に近づくことは許されず、立ち小便や日中裸体をさらす者も姦淫とみなされ、禁を犯せば死刑にされた。民衆の支持を受ける太平軍の姿を、政府側の記録も、次のように認めない訳にはいかなかった。

 「賊は初めもっぱら城市をかすめ取り、村民から略奪しなかったばかりか、行軍の道々、城市で奪った衣服を貧者に分け与えた。また、流言をまきちらし、将来は租税・賦役を免除すると宣伝した。村民はこれを徳とし、富者が城中で困っていても平気で、一銭の援助を与えようともしなかった。」

 約3万の清軍に守られた南京城は、十数日におよぶ激戦のすえ陥落した、時に1853年3月20日。以後、太平天国では、これを天京と改めて首都とし、ようやく腰をすえて国造りのかまえをとった。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/02/09 05:08 】

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