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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルわールドー英仏連合やりたい放題・アロー戦争

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アヘン戦争

 アヘン戦争の結果として南京条約を締結し、中国との自由貿易が形の上では始まったが、イギリスは、取引が上海などの5港だけに限定され、中国のどこでも自由に取引ができるわけではなかったこと、特に首都の北京での清朝政府との交渉が出来ないことなど、自由貿易としては不十分であるという不満が強まっていた。

 そのような時に持ち上がったのがアロー号事件であった。

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アロー号を拿捕する清国兵士

 1856年10月、広州港に停泊中だったアヘン密輸船のアロー号が、海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人船員12名が拘束され、うち3名が逮捕された。イギリスのカントン領事パークスは両広総督葉名琛に対して、アロー号は香港船籍の船、つまりイギリス船であり、臨検の際にイギリス国旗が引きずり降ろされたのはイギリスに対する侮辱であると抗議した。

 実際にイギリス国旗が引きずり下ろされたかどうかははっきりしない。しかも、イギリス側は最後まで隠し通したが、アロー号の香港船籍登録はすでに期限切れになっており、アロー号にはイギリス国旗を権利はなかった。

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パークス

 しかし、イギリス政府にとっては、事件の真相などはどうでも良かった。アヘン戦争後の対中関係に不満を抱き、1854年に試みた条約改正交渉もクリミア戦争の勃発で失敗に終わっていたイギリス政府は、何か大義名分さえあれば、再び遠征軍を派遣して対中関係の懸案を一挙に解決するつもりだった。


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パーマストン

 こうしてパーマストン首相は、アロー号事件という国旗侮辱問題を理由に中国に対する武力行使を決定した。その議案は上院を通過したが、下院では否決されてしまった。そこで、パーマストンは下院を解散して総選挙を行い、ようやく議案を通過させることに成功、兵士5000名からなる遠征軍を派遣した。

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ナポレオン3世

 イギリス政府はナポレオン3世治下のフランスに共同出兵を持ちかけた。この機会にインドシナへの進出を企図したナポレオン3世は、1856年に広西省でフランス人宣教師シャプドレーヌが殺害された事件を理由に、イギリス政府の出兵要請を受け入れた。

 なお、ロシアとアメリカもイギリス政府から共同出兵を要請されたが、両国は出兵には同意せず、戦後に予定された条約交渉にだけ参加することを決定した。

 また、イギリス遠征軍は途中、インドで発生したイギリス支配に抵抗するシパーヒーの反乱の鎮圧に投入されたため、中国への到着が遅れた。

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カントンに侵入する英仏連合軍

 1857年12月29日、英仏連合軍のカントン占領で、アロー戦争(第2次アヘン戦争)は開始される。拝外派として外国側から嫌われていた両広総督葉名琛は捕虜となり、護送先のカルカッタで客死する。
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 翌年2月には英仏米露の全権大使連名により清朝に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の返答に不満を持った連合軍は再び北上して渤海湾に現れ、さらに大沽【タークー】から白河をさかのぼって北京に近い天津に迫ると、太平天国の内乱にも苦しんでいた清朝は連合軍との和平交渉に入った。

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天津条約の締結

 こうして1858年6月に、清朝は英仏米露との間に4つの天津条約を締結して、外国側の諸要求を認めた。この条約の内容は公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、アヘンの輸入が公認化された。

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咸豊帝

 ところで、当時の北京政府内には和平派と主戦派の対立があった。連合軍の軍事的圧力が強まると和平派の立場が強くなり、逆に弱まると主戦派の立場が弱くなった。和平派には、 咸豊帝【かんぽうてい】の異母弟である恭親王奕訢【えききん】、彼の岳父である桂良らがいた。対立する主戦派には、咸豊帝、懿貴妃【いきひ】(のちの西太后)、粛順らがいた。

 さて、諸外国が天津条約を締結して退去すると、北京政府内ではまた主戦派が台頭した。その結果、天津条約の批准書交換のために訪中した各国全権に対して、清朝の対応はかなり強硬なものになっていた。

 1859年6月17日、英仏の艦隊は天津の南の白河口に来た。陸路で北京へ行くよう清朝側が要求したにもかかわらず、英仏全権は白河溯流を強行しようとしたのである。白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り除いている最中に、強化していた大沽の砲台から清軍の攻撃を受けた英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。この勝利は主戦派の立場をますます強くした。

ウンロード 
占領された直後の大沽砲台

 翌1860年夏、英仏軍は大艦隊と約1万7000人の兵隊という大軍で再度進軍して清の大沽砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は一路、北京に向けて進軍した。

 連合軍の進京を目前に、9月、咸豊帝と粛順ら主戦派は後事を和平派の恭親王に託して熱河へ避難した。 

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円明園の略奪

 10月7日、英仏連合軍は円明園に侵入し、史上悪名高い略奪を行った。金目のもののほとんどを略奪したのはフランス軍であった。連合軍司令官エルギン伯は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。フランス軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。

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円明園・長春園にある西洋楼遺址区の廃墟

 10月13日、北京は連合軍に開城した。ついで、10月18日、19日、イギリス軍は先に清朝側に捕虜となっていた者が虐殺されたことに対する報復措置ということで、円明園は破壊し火を放った。本当の理由は略奪を隠蔽するためだったとも言われている。フランス軍とイギリス軍は、フランス軍による略奪とイギリス軍による焼き払いを、互いに非難し合った。

ダウロード 
北京条約の調印

 英仏全権と恭親王ら清朝全権との交渉の結果、10月24日にイギリスと、翌25日にフランスと北京条約が締結されて戦争は終決した。これにより、アヘン貿易がついに合法化された。アヘンは名を「鴉片」から「洋薬」と改めて輸入が合法化され、100斤(アヘン1箱の重さ、約60キロ)につき銀30両の輸入税が課されることになった。当時の清朝は太平天国の反乱に苦しんでおり、その鎮圧に要する軍事費をアヘン課税で補うために、ついに合法化に踏み切ったのである。

 なお、アヘン貿易の合法化にともなって、官僚・宦官・兵隊を除き、一般民間人のアヘン吸引は原則として解禁された。


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/02/19 05:13 】

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