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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー金玉均の三日天下・日清戦争①

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壬午軍乱 襲撃された日本公使館(当時の錦絵)

 1882年の壬午軍乱以後、清は6000名の軍隊を朝鮮に駐屯させ、その軍事力を背景に、閔氏【びんし】政権に対し宗主権強化策を進めた。それに反発して、開化派の中の急進派である金玉均・朴泳孝らが、清が清仏戦争にかかわっている間をねらい起こしたクーデターが甲申政変である。

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金玉均

 壬午軍乱後に日本を訪れた金玉均は福沢諭吉と会い、日本の明治維新以後の発展と資本主義文明の成果を見て、日本の後援で朝鮮の国内改革をやろうと決意した。そのためには親清派である閔氏一派の政権を倒さなければならぬと考え、クーデター計画を福沢諭吉と後藤象二郎に相談した。

 この動きは外務卿井上馨も知ることとなり、井上は福沢・後藤とともに金玉均を扇動してクーデターを日本軍の武力に頼っておこなうことにさせ、ソウル駐在の日本公使館竹添進一郎公使との間で詳細な計画が練られた。当時のソウルでは日本軍はわずか1個中隊にすぎないのに清軍は1500名の兵が駐留していたが、竹添公使は少数の日本兵で清国兵を蹴散らすことができると金玉均をけしかけた。

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福沢諭吉

 福沢諭吉は1880年に朝鮮の金玉均が日本に派遣した開化派と会って以来、その運動に協力し、朝鮮人青年を留学生として慶応義塾にうけいれた。1883年には金玉均の世話で44人の青年が慶応義塾に学び、その後陸軍戸山学校に入学しているが、彼らは甲申政変で行動隊として参加し、その後の朝鮮の開化運動の指導者となっていった。また福沢諭吉は、留学生が朝鮮に帰ってから近代的新聞『朝鮮旬報』を刊行することに協力している。このように福沢諭吉は朝鮮の開化派の運動の理解者、協力者であった。

 しかし、福沢諭吉の朝鮮問題にかんする議論は、詳細に見るとその独立を支援する側面と、日本の国権を朝鮮に広げようという意図を最初から認められる。朝鮮に対しては日本は常に優位に立つべきであり、「かの人民、果たして頑陋【がんろう】ならば之に諭して之に説く可し」(1882年『時事新報』3月11日付「朝鮮の交際を論ず」)と言っている。

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竹添進一郎

 1884年12月4日、ソウル郵便局の落成式に閔氏一派の要人が参加して祝宴が開かれている間に、王宮で放火し、祝宴会場から王宮に駆けつけようとする要人を途中で殺害するという計画であったが、王宮放火に失敗したため、急遽作戦を変更し、金玉均らは国王を清国軍が攻めてくるとだまして王宮から景祐宮に移し、日本軍にその周囲を警備させた。

 要人が急いで景祐宮に駆けつけると金玉均は閔氏一派だけに入門の許可を出し、一人ずつ門内にひっぱりこんで次々と殺害した。その上で金玉均は朴泳孝ら親日派による政権の樹立を宣言したが、国民にその意図や方針を発表することはなかった。
 
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袁世凱

 翌日朝、金玉均のクーデターを知った袁世凱の率いる清国軍は国王の救出を廷臣から要請されたとして、景祐宮を守備する日本軍を攻撃、三時間で勝敗は決し、混乱する中、国王は清軍に保護され、親日派の何人かが殺害された。金玉均、朴泳孝ら9名が辛くも王宮から脱出し、日本船に収容されて日本に亡命した。

 こうしてクーデターは僅か3日で失敗に終わり、翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた。

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金玉均の暗殺(当時の錦絵)

 朴泳孝らは一時アメリカに向かったのに対し、金玉均は日本にとどまる道を選んだが、その約10年に近い亡命生活の境遇は悲惨なものがあった。金玉均は岩田周作と名乗って東京に潜行したが、日本政府はやっかい者扱いし、外務卿井上馨などは会おうともしなかった。

 ようやく当時は朝鮮の開化を応援していた福沢諭吉が金玉均らを自宅に招いてその労をねぎらった。その後金玉均は日本政府の命令によって遠く小笠原に移送され、そこで体調を崩したために北海道に移され、幽閉生活を送った。


 その間も朝鮮政府閔氏一派は刺客を送り、その機会をうかがっていた。金玉均は朝鮮独立の志は一日たりとも忘れてはいなかった。ようやく東京に戻った金玉均は、清国北洋大臣直隷総督李鴻章に会い、朝鮮改革を訴えようと上海に渡った。上海に着いた翌日の1894年3月27日、日本人経営の宿「東和洋行」で三発の銃弾を受けて倒れた。犯人の洪鐘宇は日本で金玉均に近づいて信頼され、上海までついてきた男だったが実は、閔氏一派が送り込んだ刺客だった。
李鴻章
李鴻章

 李鴻章は金玉均の屍体を刺客洪鐘宇とともに北洋艦隊の軍艦で朝鮮に送った。朝鮮政府は漢江の江岸にある楊花鎮で屍体に「凌遅処斬」(あらためて体を切り刻むこと)の惨刑を加え、「謀叛大逆不道罪人玉均」と記した札を立てて、さらしものにした。日本では〝親日派〟金玉均の死は大々的に報じられ、追悼義金の募集などが始まり、清国の処置に非難が高まった。そしてその5ヶ月後に日清戦争が勃発する。

 しかし、金玉均の死を日清戦争に直接結びつけることはできない。また彼を〝親日派〟と持ち上げることは当時も、現在も日本の中でかなり根強い見方だが、その見方も間違っている。金玉均は日本に裏切られたのだった。金玉均の交友関係は広く、また書家としても名高くその書は生活の費えとしたので日本人もあらそって買っているので、日本人にも知己は多かった。しかし金玉均は日本の、特に政府、有力政治家には裏切られたという意識を強く持っていた。
 
 彼を上海に行かせたのは危険なことはわかっていたが、日本政府はそれを黙認した。また上海で刺客に襲われたとき、付き添っていたただひとりの日本人和田延二郎の証言によると、和田は遺体を日本に運ぼうとしたが、日本領事が妨害し、その棺を居留地警察の手から清国官憲の手に渡してしまったのだという。
 
ダウンロ 
『時事新報』(1885年3月16日付)

 甲申政変が失敗した後、彼は有名な『脱亜論』を『時事新報』(1885年3月16日付)に発表し、「我国は隣国の開明を待てともに亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可きのみ」と主張するに至る。

 日本では一万円札にも肖像が用いられ、国民的な偉人とされているが、韓国では今でも日本の一万円札を見ると不快になるという人がいるほど、福沢の人気は伊藤博文に次いで悪い。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/02/23 05:17 】

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