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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー異端の民衆反乱「甲午農民戦争」・日清戦争②

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閔妃

 清は朝鮮に対して伝統的な宗主国としての影響力を強く維持しており、それに対し日本は江華島条約以来、経済的進出を強めていた。朝鮮王朝内部にも清との関係を重視する保守派(事大党)と、日本に倣って改革を実現しようとする改革派(独立党)が争っていたが、1884年の甲申政変で独立党のクーデターが失敗し、保守派と結ぶ王妃閔妃と閔氏一族が権力を握っていた。

 朝鮮での主導権を清に握られた日本は、勢力回復の機会を探っていた。その間、朝鮮では日本資本主義の経済進出によって物価騰貴、穀物不足が続き、外国に従属する閔氏政権への不満が高まっていった。

 1889年には凶作が重なり、朝鮮政府が防穀令を出して穀物の日本輸出を禁止したことに対し、日本が貿易に対する妨害であると厳しく抗議して紛争となった防穀令事件が起こった。

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崔済愚

 1894年3月、朝鮮の全羅道で東学という教団に率いられた農民たちが地方官の圧政に反抗して蜂起し、やがて反乱は全国に拡大した。

 日本では「東学党の乱」と言われていたが、東学は党としての組織をもっていたわけではないので、現在では党を付けず「東学の乱」と呼ぶのが一般的で、甲午農民戦争とも呼ばれる。

 東学は1860年に没落両班【やんばん】の崔済愚が創始した宗教で、儒教・仏教・道教を融合させ、西学(天主教=カトリック教)に対抗する意味で東学と名づけられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符を飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年崔済愚を逮捕し、死刑とした。

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甲午農民戦争

 1880年代には、外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、東学も再び活発となり、第2代教主の崔時亨のもとで組織化が進み、「斥倭洋」をかかげ、激しく日本と西洋諸国の排斥を求めるようになった。

 全琫準を指導者とする農民軍が5月末に道都の全州を占領すると、これに驚いた閔氏政権は袁世凱に清朝軍の派遣を要請した。その結果、6月に清朝軍が牙山に上陸した。清朝軍の朝鮮出兵は1885年の天津条約の規定に基づいて日本政府に通告された。そして、日本政府もただちに朝鮮に派兵し、そのことをやはり清朝に通告した。

 ところが、6月11日に閔氏政権と農民軍は全州で「和約」を結び、農民軍が要求する改革の実行と農民軍の撤収を互いに認めた。こうして、日清両国は朝鮮出兵の大義名分を失うことになった。

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陸奥宗光

 出兵の理由がなくなったことで、日清両国は交渉の上、6月に同時に撤兵することで合意した。

 しかし、陸奥宗光外相は朝鮮をめぐる日清間の対立に決着をつけるため、日清同時撤兵拒否し、大鳥圭介公使に対し「いかなる手段を取ってでも開戦の口実を作るべし」と指令した。大鳥公使は閔氏政権に対して内政改革案を突きつけながら、清朝との宗属関係の廃棄を迫った。(つづく)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/02/26 05:05 】

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