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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー眠れる獅子の悲運・日清戦争③

大院君 
大院君

 1894年7月23日未明に日本軍は王宮を占領して閔氏政権を倒し、その上で国王高宗の父である大院君を担ぎ出して、かつての改革派に属していた金弘集に内閣を組織させた。

 金弘集内閣は必ずしも日本の傀儡政権となったのではなく、その改革には封建社会からの脱却を目指す土地改革なども含んでいた。しかし、日本の軍事力を背景とした上からの改革は民衆の支持を受けることはできなかった。

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光緒帝

 清では光緒帝は開戦論に傾いていたが、李鴻章は配下の北洋艦隊を温存したいため開戦には消極的であった。

 ところで、北洋大臣の李鴻章のもとには、淮軍を近代化した北洋陸軍と、清仏戦争後にドイツから購入した「定遠」「鎮遠」を主力艦とする北洋海軍があった。特に、1888年に完成し、1891年には日本の長崎に示威航海した北洋艦隊は、装備の面で当時の日本海軍をしのいでいた。

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西太后

 しかし、その後、海軍経費が西太后の還暦を祝う頤和園の造営費に流用されるなどの理由で北洋艦隊の強化が進まなかったのに対して、日本海軍は速射砲などの性能面、機動力の点で優位に立っていた。

 このよなう北洋軍の劣勢を熟知し、また自分の後ろ盾としての軍事力を失うことを恐れた李鴻章は、列強の介入によって日本を牽制し、開戦をなんとか回避したいと考えた。また、同年11月に還暦を迎える西太后も祝賀行事を盛大に行うことで頭が一杯だったから、李鴻章の方針を支持した。

 しかし、光緒帝をはじめとして北京政府内には主戦論が多かったため、李鴻章は開戦を決定しないまま、少しずつ増援部隊を派遣するしかなかった。

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明治天皇

 日本では、明治天皇は「今度の戦争は大臣の戦争であり、朕の戦争ではない」と不快感を表し、伊藤博文も慎重論であった。それは当時、条約改正交渉の相手であったイギリスの出方をうかがっていたからだったが、7月16日、日英通商航海条約が成立して治外法権の撤廃に成功し、問題はなくなった。

 一方ロシアは、1891年からシベリア鉄道の建設を開始していたが未完成であり、アジアへの兵力輸送が迅速にできないことから、介入できなかった。

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豊島沖の海戦
 1894年7月25日、日本海軍は黄海上の豊島沖で奇襲攻撃をかけて北洋艦隊の戦艦1隻を沈めた。

 陸上でも日本陸軍が行動を開始、清の朝鮮駐屯軍と7月29日、京城南方の成歓で衝突、清軍は大敗し潰走した。このように日清戦争も日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っている。
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 8月1日に双方が宣戦布告、清軍は平壌に兵力を結集したが、9月16日に全軍が総崩れとなって撤退、平壌の戦いは日本軍の勝利となった。

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黄海海戦

 海上では翌9月17日、日本の連合艦隊が北洋艦隊を捕捉し、主力艦3隻が撃沈されるという黄海海戦で清は大敗した。

 ここまで、日清戦争の戦場は朝鮮半島と黄海であったが、10月24日に日本軍が鴨緑江をわたって清国内に入り、遼東半島に侵入、11月21日には旅順を占領した。このとき日本軍が旅順市民を殺害する事件が起き、国際的に非難された。

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逮捕され護送される全琫準

 全琫準の指導する東学と農民軍は、日本軍のソウル占拠をうけて、戦闘再開を準備し、10月から日本軍との戦闘を開始した。すでに清軍との戦闘で勝利していた日本軍は、全力で農民軍との戦闘に兵力を充てたため、農民軍は圧倒され、激戦の末、次第に追いつめられていった。翌1895年1月、山中に隠れていた全琫準も捕らえられ、農民戦争は壊滅した。

 井上馨日本公使は全琫準の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、朝鮮政府は井上が帰国している間に、処刑を執行した。

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丁汝昌

 冬を越して1895年1月末、日本海軍は北洋艦隊の拠点、威海衛を攻撃、陸軍も山東半島に上陸して陸上から攻撃した。2月に水師提督丁汝昌が自決して降伏した。

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下関講和会議
 戦意を失った清朝政府は休戦交渉に入り、1895年3月19日から下関の春帆楼で日清講和会議が行われた。春帆楼は伊藤博文がよく利用していたふぐ料理の料理屋で、ちなみに江戸時代には禁制だったふぐ料理を、はじめて許可された店としても知られている。その2階の大広間で、李鴻章が伊藤博文・陸奥宗光らとの交渉に応じた。

この講和会議の間に、日本は台湾併合の既成事実を作るため、台湾に付属する澎湖諸島を3月26日に占領した。

 4月17日、下関条約が成立して日清戦争が終結、日本は賠償金2億両(テール)とともに、遼東半島・台湾の日本領化・澎湖諸島の割譲を受けるなどの成果を得た。

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「朝鮮をねらう3国」(1887年、ビゴー画)

 ところで、日清戦争は英露の対立をはじめとする複雑な国際関係の下で行われた。上のビゴーの風刺画にあるように、橋の上から漁夫の利を得ようとじっと見守っていたロシアが、講和条約調印のわずか6日後の4月23日に日本に対して遼東半島の返還を迫ってくる。いわゆる三国干渉である。

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小国日本が大国清を倒した風刺画

 また、日清戦争の敗北は清朝にとって大きな衝撃となった。アヘン戦争以来の敗北の連続ではあったが清朝はまだその権威を保っており、〝眠れる獅子〟と呼ばれていた。

 しかし、小国日本にまで敗れたことで、清朝はその弱体化を世界に曝すことになった。また、下関条約で日本に与えられた「開港場での企業設立権」は最恵国待遇により欧米列強にも与えられ、帝国主義列強による1898年の中国分割につながることとなった。(おわり)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/03/02 05:14 】

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