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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー逆転無罪・ドレフュス事件

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ドレフュス

 第三共和政下のフランスでは、1889年のブーランジェ事件、1892年のパナマ事件などが続き、共和政治に対する不信が強まり、一方で普仏戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。
 
 1894年夏、フランス陸軍参謀本部内に潜むドイツのスパイの存在が明るみに出たのは、パリのドイツ大使館から盗まれた一通の手紙であった。ドイツ人武官宛ての差出人不明の手紙にはフランス陸軍の機密文書名が列記されていた。

 驚いた参謀本部は直ちにその犯人捜しに乗りだしたところ、参謀本部付きの砲兵大尉アルフレッド=ドレフュスが浮かんだ。疑われた理由は彼がアルザス生まれのユダヤ系であったことだった。参謀たちのユダヤ人に対する軽蔑がその判断を濁らせた。ひそかにドレフュス大尉の筆跡を取り寄せてメモと比較したところ参謀たちは一致していると断定した。10月13日ドレフュス大尉は参謀本部に出頭したところを反逆罪で逮捕された。

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軍刀をへし折られるドレフュス(左側に立つ人物)

 大尉は強く否定したが、事件をスクープした反ユダヤ系の新聞が「ユダヤ人の売国奴、逮捕される!」と報道した。12月の裁判で有罪が確定し、ドレフュスの軍籍は剥奪されることとなり、翌1895年1月5日、練兵場で徽章ははぎ取られ、軍刀はへし折られた。見守る群衆はドレフュスに「ユダヤ人!売国奴!殺せ独探!」と罵声を浴びせた。

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ディアブル島(悪魔島)

 終身禁固刑を言い渡されたドレフュスは、1895年3月に南アメリカのフランス領ギアナ沖の離島ディアブル島(悪魔島)に送られた。

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エステラジー 

これで一件落着と思われたが、1896年に今度はドイツ武官からスパイに宛てて書かれたものの差し出されずにゴミ箱に捨てられた手紙をフランス側が盗み出した。スパイの名は陸軍のエステラジー少佐。

 新たに参謀本部情報部長となったピカールはその筆跡を入手して以前の鑑定人に見せたところ、メモと同一だと答えた。ドレフュスの無実を確信したピカールはその結果を上層部にあげたが、軍部の威信と保身だけを考える幹部は同中佐を左遷して事件に蓋をしようとした。陸軍大臣以下の軍首脳は軍事裁判の権威を守るためとしてそれを抑えつけてしまった。


 一方、ドレフュスの妻のリュシーと弟はドレフュスの無罪を信じて奔走し、エステラジー尋問するように嘆願書を提出する。一方でエステラジーも、自身の潔白のための尋問を要求した。1898年1月11日に軍は形式的な軍法会議で無罪判決を出したが、その後エステラジーはイギリスに亡命。亡命後の1899年、自分はドイツのスパイであり、ドレフュスの筆跡を真似て書類を捏造したと告白している。(少佐は後に自殺)

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ゾラの公開弾劾文を掲載した『オーロール』紙

 俄然ドレフュス擁護の世論はわき上がり、この判決のわずか2日後の1898年1月13日、国民的作家ゾラはクレマンソーが主催する『オーロール(曙)』紙上にフォール大統領宛の公開弾劾文「余は弾劾す(J'accuse!)」を掲載する。

 それはドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げたこと、上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したものであった。

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ゾラ

 右派や反ユダヤ系新聞は激しく反論し、ゾラは軍に対する誹謗中傷の罪で告発されてしまった。その裁判はドレフュスの無罪を明らかにする機会でもあったが、結果は反ドレフュスの世論が根強く、かえってゾラは有罪とされてしまった。ゾラは言論活動ができなくなることを避けて、ロンドンに亡命した。こうしてドレフュス事件は再び葬られた。

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ドレフュスの裁判

 しかしその後、再審の声が強まり、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエステラジーのものであることが明らかになった。

 1899年6月5日、ドレフュスは5年にわたる悪魔島の禁固を解かれ、再審のためにフランスに戻った。8月にレンヌで軍法会議の再審が開始され、やつれたドレフュスが出廷した。しかし、軍は1894年の参謀本部の責任者メルシエ将軍が出廷し、上層部の謀議を否定した。その判決の日、ドレフュスの弁護士ラボリが暴漢に銃撃され大けがするという事件も起きる。

 結局、再審の判決も2対5で有罪となり、情状酌量で禁固10年という判決であった。ドレフュスは再び絶望の淵に沈み、収監された。

 しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、再審請求を取り下げること(つまり有罪を認めること)を条件に、姑息にも大統領令によって特赦するという政治的決着がはかられた。9月19日、ドレフュスは特赦によって出獄したが、一部の知識人はこの「欺瞞的解決」に激怒したが、世論は沈黙する。

 名誉回復を求めるドレフュスらはなおも7年間にわたって再再審を要求する。ようやく再再審が行われて無罪判決・名誉回復がなされた1906年には事件発覚から12年の歳月が経っていた。

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ヴェルダン戦

 ドレフュスは軍籍に戻り、少佐に昇進したうえで、1909年6月に引退した。第一次世界大戦が起きると砲兵中佐としてヴェルダン戦に参加し、終戦後はスイスで暮らした。

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ヘルツル

 根強いカトリック教国であるフランスでは、ユダヤ人はキリストを裏切ったユダの子孫という単純な憎悪があった。他のヨーロッパ諸国と同じく、中世から近代に至るまで、ユダヤ人に対する差別意識である反ユダヤ主義が続いていた。フランス革命よって、自由・平等・博愛の理念からユダヤ人の人権も認められ、差別は否定されたが、民衆の中の差別感は残っていた。

 普仏戦争後、ユダヤ人でフランスに移り住む人々も増え、第三共和政のもとでの産業発展には彼らの勤勉で高い能力が大きな力になっていた。特にユダヤ系の金融資本や産業資本が利益を蓄え、彼らは共和政を支持する勢力でもあった。しかし都市の下層民や農民はそのようなユダヤ人の成功に反発する心理も強くなっていた。

 ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、民衆の反ユダヤ感情がそのエネルギーであった。このようなフランスのみならずヨーロッパ全域での反ユダヤ感情の強さを、ドレフュス事件で身を以て感じたのがハンガリー出身でジャーナリストとして当時パリに滞在していたユダヤ人、ヘルツルであった。

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シオニスト会議

 ヘルツルはこの事件でショックを受け、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざすシオニズム運動を開始。

 1897年、バーゼルで第1回シオニスト会議が開催され、この動きがイスラエル建国へと繋がっていった。シオニムズ運動の提唱者ヘルツルは〝建国の父〟と呼ばれることになる。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/03/05 05:04 】

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