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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー銃弾に倒れた平和行進・血の日曜日事件

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行進する民衆

 日露戦争の最中、旅順が陥落した直後の1905年1月22日(ロシア暦で9日)、ロシア帝国の都ペテルブルクで、ニコライ2世に対して労働者の権利、待遇改善などの経済要求と、立憲政治の実現、日露戦争の停止などの政治要求を掲げた請願が実施された。

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ガポン

 この労働者の請願行動は、ガポンという司祭(聖職者)でありながら労働運動に加わっていた人物に指導されていた。当時ペテルブルクには日露戦争中であったため軍需工場を中心に労働者に対する過酷な労働強化が図られていた。労働組合結成やストライキ権は認められおらず、無権利状態に対する労働者の不満は強まっていた。

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レーニン

 すでに活動をはじめていたロシア社会民主労働党や社会革命党(エスエル)は当局の激しい弾圧を受け、レーニンやプレハーノフもジュネーヴに亡命中であった。

 そのような中、ガポンはペテルブルクの労働運動を合法的な運動として当局に働きかけ、その承認を受けてニコライ2世に対する請願行動を起こそうと計画していた。

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ニコライ2世

 発端はガポンの組織した「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」(ガポン組合といわれた)に参加していたプチーロフ軍事工場の労働者4人が些細なことで解雇されたことをきっかけに、全市の労働者のゼネストに発展、指導者のガポンが工場長らの横暴をニコライ2世に直接訴える請願を提案した。

 ガポン組合の行動は社会主義者に指導された労働運動とは一線を画し、隊列は武装せず、その先頭には十字架を掲げるという平和的なものであった。しかしガポンとその協力者たちはこの請願行動は決死の覚悟で臨む必要があることも理解していた。 

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銃弾に倒れる民衆

 つまり、突発的な衝突事件ではなく、計画され、組織された請願活動であり、武力弾圧も想定されていたのだった。事実、請願行進は市内の各所で行われ、しかも軍隊の発砲にもかかわらず行進を続け、多数の労働者と女性、子供を含むその家族と共に、指導者の何人かも銃弾に倒れた。

 先頭に立っていたガポン自身も銃撃されたが一命を取り留め、、事件後に作家のゴーリキーに匿われて逮捕を免れ、ロンドンに亡命した。

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銃弾に倒れる民衆

 10数万人の労働者とその家族は、幾手にも分かれて冬宮を目指したが、各所で軍の守備隊に阻止された。労働者は武器を持っておらず、ツァーリに対して「プラウダ」(正義)を訴える請願行動であったが、軍当局はコサック兵などを動員して労働者に発砲し、1000人以上が殺害され(当局発表は100人)、2000人近くが負傷した。

 労働者請願行動が、軍隊の発砲によって弾圧された「血の日曜日」の事件は、労働者大衆の中にあったツァーリズムに対する信仰(悪いのは官僚や貴族だ、我々の苦境を救い、不正をただしてくれるのはツァーリだ、という思い)を完全に打ち砕いた。ペテルブルクに続いて、各地で労働者は暴動を起こし、政府当局は苦境に立たされた。

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ポーツマス講和会議

 ロシア社会民主労働党や社会革命党などの社会主義者は、ガポンの武器によらない請願活動については幻想であると批判し、武器の使用と革命への転換を主張していたが、労働者をストライキから請願行動に引っ張っていく力はガポンの方が強かった。社会主義者も血の日曜日事件ではともに戦っているが、まだ革命への主体的力量は整っていなかった。

 一方で日露戦争は次々と敗北を重ねた。1月の旅順陥落に続いて3月には奉天会戦で大敗し、5月には日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅した。6月には黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、オデッサでも市民が蜂起した。このような情勢が続き、ツァーリ政府は兵士の離脱を恐れて、日露戦争の継続を断念し、ポーツマス講和会議に応じ、9月にポーツマス条約を締結した。

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ウィッテ

 講和後もロシアの革命的な動きは続いた。10月にモスクワで鉄道員のストライキをきっかけに、全国でゼネストに突入すると、ツァーリ政府はウィッテを中心に事態打開に動き、10月17日、ニコライ2世の名で「十月宣言」を出し、市民の政治的自由を認めると共に国会(ドゥーマ)の開設を約束した。

 この9月から10月にかけて、各地に新たな革命の主体としてソヴィエトが形成されていった。しかし、12月にモスクワから始まったゼネストは武力で押さえ込まれてゆき、第1次ロシア革命はいったん収束し、翌年から反動期に入っていく。

 十月宣言で一定の改革が打ち出されると、ガポンは期待をして翌年ロシアに戻り、かつての権力によって保証された労働組合運動を再建しようとした。ウィッテもそれを容認し、密かに資金を提供するなど関係を持ったが、そのようなガポンの動きは革命派に裏切りと写り、1906年3月28日社会革命党の会議にガポンを召還し、首に縄を付けて宙づりにして殺した。

 ソ連共産党の正史ではガポンは当局のスパイであったと断定され、日本でも長くそのような評価がされていたが、現在ではガポンの行動をスパイや裏切りととらえるのは誤りであることが明らかにされている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/03/16 05:14 】

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