なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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アメリカは1860年代の南北戦争のため、中国大陸への進出が遅れたが、1898年に米西戦争の勝利によってフィリピンを獲得、マッキンリー大統領はそこを足場に中国に進出しようとした。
しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど、中国分割が進んでいた。
そこで1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。この門戸開放と機会均等の2原則に加え、さらに翌1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。
そこで1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。この門戸開放と機会均等の2原則に加え、さらに翌1900年、ヘイは清国の領土保全の原則を宣言した。
ジョン=ヘイ
この三原則を「ヘイの三原則」といい、さらにアメリカ合衆国の中国に対する外交原則を門戸開放政策 Open Door Policy という。門戸開放政策は以後アメリカのアジア対外政策の原則的な要求となり、ロシア・日本の中国大陸への進出に対してもこの原則を掲げて反対した。
第一次世界大戦が勃発し、日本は中国に対して山東省でドイツ権益の継承などを二十一カ条の要求として突きつけると、アメリカとの調停が必要となり、1917年11月、特使石井菊次郎を派遣して、国務長官ランシングと協議させた。ランシングは、中国の門戸開放・機会均等・領土保全を尊重することを条件に日本の山東省に対する特殊権益を認めた。
この石井・ランシング協定は、もともと矛盾する内容であるが、曖昧な表現をとることによって、アメリカは中国における日本との対立を避け、ヨーロッパでの世界大戦への参戦を可能にしたのだった。
マッキンリーは1901年9月5日、夫人と共にバッファローで開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席し、関税に対する姿勢と対外貿易に関しての演説を行った。
翌朝にはナイアガラの滝を訪問し、その後博覧会に戻った。その日の午後、マッキンリーはテンプル・オブ・ミュージックでの歓迎会に出席する予定であった。
翌朝にはナイアガラの滝を訪問し、その後博覧会に戻った。その日の午後、マッキンリーはテンプル・オブ・ミュージックでの歓迎会に出席する予定であった。
博覧会会場で、大統領と握手するために列を作っていた人々に混じっていた男が、手に持ったハンカチの下に拳銃を隠し、1mの至近距離で大統領の胸と腹部を撃った。1発目はタキシードのボタンに当たって横にそれ、2発目が腹部に命中した。銃撃の8日後に大統領は死んだが、死因はすい臓壊疽と発表された。
今日の医学の常識では弾丸によるというよりは、手術の不手際によるとみなされている。担当医師団は開腹手術で弾丸を摘出することができなかった。医師団は大統領の肥満のせいにした。
マッキンリーは郷里オハイオ州のカントンに埋葬され、以後、大統領にはシークレット・サービスに警備されることになった。
今日の医学の常識では弾丸によるというよりは、手術の不手際によるとみなされている。担当医師団は開腹手術で弾丸を摘出することができなかった。医師団は大統領の肥満のせいにした。
マッキンリーは郷里オハイオ州のカントンに埋葬され、以後、大統領にはシークレット・サービスに警備されることになった。
マッキンリー大統領を暗殺した男はレオン=チョルゴッシュといい、ユダヤ系ポーランド移民の子で、28歳であった。21歳の時、アメリカの政府は間違っていると考えるようになりアナーキストのグループに入った。4年前に起こったアメリカ労働運動史上最大の汚点のひとつとされるラティマー炭坑虐殺事件(穏やかな抗議行動中のロシア系炭鉱労働者が大量虐殺された)が複線だった、と言われている。
その場で取り押さえられたチョルゴッシュは、裁判を認めず、弁護士も頼まず、法廷での発言も拒否した。9月23日の即決裁判で死刑の宣告を受け、10月29日、ニューヨーク州オーバン刑務所内の電気椅子で処刑された。異例の早さだった。彼は最後まで、働く善良な人間の敵を殺したのであり、自らの所業を後悔していないと言い続けた。
刑務所当局は、遺族の遺体引き渡しの求めを拒み、刑務所内に掘った墓穴に遺体を入れ、上から大量の生石灰と硫酸をふりまき埋めた。遺体は、半日以内で化学分解し、全く跡形を止めなかったと推測される。文字通り、犯人は消されてしまったのである。
その場で取り押さえられたチョルゴッシュは、裁判を認めず、弁護士も頼まず、法廷での発言も拒否した。9月23日の即決裁判で死刑の宣告を受け、10月29日、ニューヨーク州オーバン刑務所内の電気椅子で処刑された。異例の早さだった。彼は最後まで、働く善良な人間の敵を殺したのであり、自らの所業を後悔していないと言い続けた。
刑務所当局は、遺族の遺体引き渡しの求めを拒み、刑務所内に掘った墓穴に遺体を入れ、上から大量の生石灰と硫酸をふりまき埋めた。遺体は、半日以内で化学分解し、全く跡形を止めなかったと推測される。文字通り、犯人は消されてしまったのである。
ちなみに、植村直己さんが1984年に冬期単独登頂に成功した後、消息を絶った山として日本にもよく知られているアメリカ合衆国アラスカ州のマッキンリーは、6190mの北米大陸最高峰である。
この山名は1896年に当時の大統領候補だったウィリアム=マッキンリーにちなんだもので、彼は翌年、第25代の大統領に就任した。
この山名は1896年に当時の大統領候補だったウィリアム=マッキンリーにちなんだもので、彼は翌年、第25代の大統領に就任した。
植村直己
しかし、先住民はこの山を「偉大なもの」を意味する「デナリ」と呼び、聖域としている。アラスカ州政府は1975年からデナリを正式名称に使うよう連邦政府に要求、80年には「デナリ国立公園」を設けた。
2015年8月30日、ホワイトハウスは、マッキンリーをアラスカ先住民の呼び方「デナリ」に改称すると発表した。アラスカ州政府の40年にわたる要求を受けいれ、31日、オバマ大統領が同州で正式発表をする。ホワイトハウスは改称の理由として、先住民にとって聖域であり、マッキンリー大統領はアラスカに足を踏み入れたことはない、とした。
↓ ランキング挑戦中 Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!2015年8月30日、ホワイトハウスは、マッキンリーをアラスカ先住民の呼び方「デナリ」に改称すると発表した。アラスカ州政府の40年にわたる要求を受けいれ、31日、オバマ大統領が同州で正式発表をする。ホワイトハウスは改称の理由として、先住民にとって聖域であり、マッキンリー大統領はアラスカに足を踏み入れたことはない、とした。
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