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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーテディベアを生んだ大統領・セオドア=ローズヴェルト

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セオドア=ローズヴェルト(1902年撮影)

 1858年ニューヨークの名門に生まれたセオドアは、博物学好きで喘息に苦しむ虚弱な子供であった。彼は体力の無さに応じて生涯の奮闘を決心した。彼は自宅で学習し、自然に情熱を抱くようになる。大学はハーバードに入学し、そこで海軍への関心を高めるようになり、ハーバード卒業から1年後の1881年、彼は最年少議員としてニューヨーク州下院に選任された。

 1882年には「The Naval War of 1812」を出版し、歴史家としての名声を確立した。1884年2月14日、母と出産直後の妻を同じ日に失い、家を出奔、バッドランズで数年間生活した後、ニューヨークに戻って市警察の腐敗と戦うことで名声を得た。

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キューバに侵攻する「ラフ=ライダーズ」

 共和党員として地方議員やニューヨーク市公安委員長などを務めていたが中央政界では無名であったローズヴェルトが脚光を浴びるようになったのは、1897年にマッキンリー大統領の下で海軍次官に抜擢されてからであった。彼は共和党に属し、熱心に海外膨張主義を主張し、特にカリブ海への勢力拡大、中国市場に参画するためにハワイおよびフィリピンの領有を画策していた。

 彼の進めた膨張政策は1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)を実現させたが、彼はその際には「義勇騎兵隊ラフ=ライダース」を率いてキューバに侵攻し、名声を高めた。

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マッキンリー

 19世紀の最後で、次の世紀の指導者を選出する大統領選挙は1900年に行われた。共和党からは帝国主義政策を推進したマッキンリーが再出馬、対抗する民主党からは40歳の若さが売り物のブライアンが立ち、フィリピンや中国への帝国主義進出を舌鋒鋭く批判した。

 それを受けて選挙戦の前線に立ったのが副大統領候補セオドア=ローズヴェルトだった。彼はまだ41歳、若い二人の舌戦が大統領選挙を大いに盛り上げた。

 セオドアは米西戦争では自ら義勇兵を率いてキューバに乗りこみ「帝国主義者」を自称して憚らず、「偉大な文明国の膨張は、常に、法と秩序と正義の勝利を意味する」と主張し、フィリピンをフィリピン人に返せというブライアンの主張に対しては「フィリピンをフィリピン人に返すなら、アリゾナをアパッチ族に返さなければいけない」と反論した。

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ブライアン

 ブライアンは「帝国主義は、現在我々の国を脅かしている最も危険な罪悪である」と訴えたのに対し、セオドアは「私はいかなるときも膨張に賛成である。我が国の兵士が戦い血を流してきた血で、我が国の旗を引き下ろすことはしたくない」と訴えた。

 このアメリカ全土を熱狂にまきこんだ1900年の大統領選挙は、マッキンリーとセオドア=ローズヴェルトの共和党が勝利した。

 ただし、この時の選挙は現代と異なっていた。まず女性に選挙権は認められていなかった。また黒人選挙権は南部における様々な規制法によって実質的に行使できなくなっており、この年、最後まで残っていたノースキャロライナ州選出の黒人下院議員ジョージ=ホワイトが立候補を断念、以後28年間、黒人がアメリカ議会で演説することはなかった。

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1904年の風刺画「棍棒外交」

 1901年9月6日、マッキンリーが暗殺されたため、憲法の規定によりローズヴェルトが大統領に昇格した。なお就任時の42歳と10ヶ月は史上最年少である。内政では、革新主義の高まりを背景にトラスト規制などの改革政治を推進した。外政では力を背景とした実力外交を展開、「棍棒外交」と言われた積極的なカリブ海政策を進めた。「棍棒外交」は本人の言葉である「speak softly and carry a big stick(棍棒を携え、穏やかに話す)」にちなむ。

 すでにマッキンリーの時にプラット条項を強制していたキューバは、ローズヴェルトに代わってから、1902年にキューバ共和国として独立したが、事実上保護国の立場に置かれた。彼はさらに、パナマ運河建設権の獲得など帝国主義政策をとった。日露戦争、モロッコ事件では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞している。

ダンロード 
タフト

 その人気にもかかわらず、彼は1908年の大統領選へ出馬しないことを決定した。代わりに、彼の政策を継続してくれるだろうと考え長年の友人タフトを支持した。

 しかしながら、タフトの勝利後に、ローズヴェルトは、タフトが自分の政策に反する考えを持つことが分かり、1912年の大統領選挙に革新党(進歩党とも訳す)を結成して臨んだが、民主党のウィルソンに敗れ再任はならなかった。

 ウィルソンの内政での革新政策は支持したが、外交政策、特に国際連盟加盟に反対し、これを阻止した。

ダウンド 
『ワシントン・ポスト』紙の挿絵

 1902年の秋、ローズヴェルトは趣味である熊狩りに出かけたが、獲物をしとめることができなかった。そこで同行していたハンターが年老いた雌熊(一説には傷を負った子熊)のアメリカグマを追いつめて最後の1発を大統領に頼んだが、ローズヴェルトは「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神に反する」として撃たなかった。
 
 このことが同行していた新聞記者のクリフォード=ベリーマンによって記事にされ、『ワシントン・ポスト』紙に挿絵入りで掲載された。この挿絵のベアは「ベリーマンベア」と呼ばれた。

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テディベア 

 このローズヴェルトの逸話に触発されて、ロシア移民モリス=ミットムがアイデアル社を興し、熊の縫いぐるみを製造したのが、アメリカ国内初のテディベア・メーカーと言われている。ちなみに、「テディ」はローズヴェルトの愛称である。

 一方、同じ頃にドイツのマルガレーテ=シュタイフの興したシュタイフ社によって、元々はローズヴェルトの逸話と無関係に1902年に作られた熊の縫いぐるみが大量にアメリカに輸入されており、その発注が1903年3月のライプツィヒのトイ・フェアへの出典に端を発するなど公的記録が残されていることから、世界初のテディベアメーカーとしてはシュタイフ社とする説もある。

 
いずれにしても、テディベアという呼称は新聞記事が最初であり、独占的な商標でないことに変わりはない。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/03/26 05:09 】

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