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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー極悪非道な国王・レオポルド2世①

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リヴィングストン 

 ディヴィット=リヴィングストンはナイルの源流を求めてヴィクトリア滝を発見したほか、アフリカ大陸の南半で3万マイルに及ぶ未知の地域を踏破し、完全な記録を残した大探検家として知られるが、冒険的な探検家ではなく、黒人奴隷制を廃止する熱意に燃え、キリスト教の福音主義運動にもとづく伝道師としてアフリカに渡ったのであった。

ダロード 
ンガミ湖に到着

 スコットランドのグラスゴー南西部の紡績工場で働く10歳の少年工だった時、奴隷貿易を知ってショックを受け、敬虔な長老派信者であった彼は医療伝道師を志し、時間をかけて医学・神学を学んだ。南アメリカで伝道生活を行っている時に、住民の言語・習俗、未知の地域への関心に目覚めたのだった。

 1849年のンガミ湖の発見で王立地理学協会との結びつきが生まれ、以来地理的探検にのめり込むことになった。

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奴隷貿易

 探検の間も、リヴィングストンは奴隷貿易廃絶への初志は忘れなかった。キリスト教と文明、そしてなによりも内陸部への有利な交易ルートの発見こそが奴隷貿易を無くす道であるというのが、彼の信念であったが、時にはヴィクトリア朝人独特の「たくましいキリスト者精神」で、腕ずくで奴隷キャラバンから犠牲者を解放したりもした。

 ザンジバルでは彼の努力でその没年である1873年に奴隷制は廃止されている。

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 1866~73年のナイル水源探検では、奴隷商人に買収されたポーターに医薬品を持ち逃げされて病に倒れ、数年間行方知れずになった。

 イギリス国内では消息を絶ち、死亡説まで流れているリヴィングストンを探索する動きも出ていたが、過酷な旅に加えて現地での妨害もあり、失敗続きであった。

ダウンド 
スタンリー

 1869年10月、『ニューヨーク・ヘラルド』の経営者であるジェームズ=ゴードン=ベネット=ジュニアは、ヨーロッパ滞在中に、特派員の1人であるヘンリー=スタンリーに電報を送り呼び寄せた。

 スタンリーはリヴィングストン捜索の依頼を承諾し、莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を約束された。

 スタンリーはただちに出発したが、他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、リヴィングストンのいる辿り着いたのは1871年11月10日であった。

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リヴィングストンとスタンリーの対面

 スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇し、従者に導かれて本人と対面した。骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリーが発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」は、後にイギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられた。

 2人はタンガニーカの北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごした。スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望んだ。

 スタンリーは1872年3月15日、イギリスへ向けて旅立ち、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。

 8月15日にリヴィングストン一行はバングウェル湖へ向け出発し、翌年4月29日にはバングウェル湖南側の村、チタンボへたどり着いた。しかし、日記に探検の記録を書き付ける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。

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スタンリーと原住民の少年

 1874年、スタンリーはビクトリア湖、アルバート湖を経てアフリカを横断しコンゴ川の流路を確認した。999日後の1877年8月9日スタンリーらはポルトガル領であるコンゴ川河口に到着した。356人で出発し114人が生き残り、欧米人はスタンリーのみであった。

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レオポルド2世

 ベルギー国王レオポルド2世は隣国オランダがオランダ領東インド経営で大きな成功を収めていることに刺激を受け、同じような植民地の獲得を目指した。1878年、スタンリーを雇い入れたレオポルド2世は、「文明化をもたらす」という口実でスタンリーを派遣してアフリカ中央部の広大なコンゴ地方を探検させ、植民地を獲得した。

 しかし、ベルギーの議会と世論はレオポルド王2世の行動に反対したため、レオポルド2世はコンゴを個人の私有地として所有することとなった。彼は自己の行動が個人的なものととられることを避けるために、1883年に「コンゴ国際協会」を設立してその保護下で開発を進めることとした。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/03/30 05:09 】

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