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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー百日維新・戊戌の変法①

ダウンド (1) 
光緒帝

 1875年1月、同治帝が継嗣のないまま数え年19歳で死去すると、咸豊帝の弟である醇親王奕譞【じゅんしんのうえきけん】と西太后の妹の間に生まれた少年が、次の帝位についた。これが徳宗光緒【こうしょ】帝である。光緒帝は1971年の生まれであり、帝位についた時、まだ数え年4歳に過ぎなかった。

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ネットユーザーが復元した若き日の西太后

 光緒帝を帝位に強く推薦したのは、西太后であった。ところで、同治帝と光緒帝は、生まれた年に隔たりがあるものの、いずれも道光帝の孫であり、咸豊帝の次の世代に属している。このような同じ世代の皇位継承は、清朝の前例にはない異常な決定であった。

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垂簾聴政(テレビドラマ『蒼穹の昴』より)

 同じ世代を立てることによって、光緒帝は同治帝ではなく咸豊帝の後代として先祖の祭祀を行うかたちとなり、しかも幼少であったので、咸豊帝の皇后である東太后と妃である西太后が皇帝の後見をすることになる。こうして東太后と西太后の垂簾聴政【すいれんちょうせい】が継続したのである。

 1881年に東太后が急死し、西太后一人が政権を握るかたちになった。これにより後ろ盾を失った恭親王奕訢【えききん】は、清仏戦争敗戦の責任を取らされて失脚し、北京宮廷の政治権力は西太后に集中することになった。

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孝定景皇后(光緒帝の皇后)

 1887年、数え年17歳になった光緒帝の「親政」が始まった。しかし、西太后はなお最高権力を手放さなかった。

 1889年、西太后は自分の弟の娘を光緒帝の皇后に選び、皇帝が親政を行うことを許した。しかし、皇帝は何かにつけ頤和園【いわえん】に出向いて西太后の考えを聞かなければならず、また、西太后みずからは北京の西北郊外にある頤和園を改修して隠居所とした。皇后は皇帝のそばに西太后が送り込んだ監視役であった。

 光緒帝は青年皇帝として成長すると、政治路線をめぐって西太后と対立を深め、1894年の日清戦争でも、光緒帝は主戦派を支持し、開戦に消極的な西太后と対立した。

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康有為

 一方、康有為は現在の広東市に代々の儒家に生まれたが西洋の学問も修め、両者を折衷して孔子思想の新解釈を試み、孔子の中にすでに改革の思想が含まれるという新学説を提唱し、注目を集めた。

 康有為は改革の理念を公羊学においた。清朝の儒学の主流は考証学であったが、清末には些末な形式論に陥り、実用に適さなくなっていた。康有為は、孔子の著作とされる「春秋」の解釈は「公羊伝」によるべきであると主張、「公羊伝」によれば孔子は制度の改革を目指して「春秋」を著したものとなる。この学問を公羊学といい、単なる字句の解釈に止まらず、現実の社会を直視して政治の改革と民衆の経済生活の安定を目指す経世済民の学であった。

 康有為は、かつての洋務運動が、西洋の思想と技術を分け、その技術だけを取り入れようとしたことが失敗であったとし、機械文明を取り入れるだけでなく、西洋の立憲政治を取り入れ民衆の権利をみとめることによって、国民の義務も負わせるようにすれば、国は繁栄すると考えた。その手本とされたのが日本の明治維新であった。

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公車上書

 1888年、康有為は光緒帝への最初の上書を行って変法(改革)を主張した。そこでは政治の停滞が指摘されるとともに、日本の変革への言及がすでに見られる。

 1895年、康有為は科挙の最終段階の会試を受験するために北京に来ていて、下関条約調印の問題にぶつかった。彼は北京に集まっていた1300名の受験者(挙人)達に呼びかけて、停戦に抗議する「公車上書」を行い、変法と富国強兵を主張した。「公車」は、挙人を意味する雅語である。また、変法の宣伝のために強学会という政治団体が結成され、会報の刊行が始められた。

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「中国分割」の風刺画

 1895年に科挙に合格して進士となり、康有為は工部参事に任命された。宮廷の官僚として皇帝の政治に関わるようになってからも、たびたび改革の意見を朝廷に具申した。

 さらに1898年旧暦正月8日、ヨーロッパ列強による中国分割の事態が進む中、、康有為は国政全般にわたる改革案をまとめ、5度目の上書を光緒帝に提出した。

 光緒帝はふかく信任した大臣の手を通じて康有為の上書を読んで、その主旨に全く同感し、彼の意見に従って改革を行おうとした。それが戊戌の変法といわれる改革運動であったが、その前に立ちはだかったのが西太后であった。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/04/09 05:06 】

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