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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー百日維新・戊戌の変法②

ダウンド (1)
光緒帝

 1898年6月11日、朝廷内の保守派の筆頭だった恭親王奕訢【えききん】の死などをきっかけとして、光緒帝は「明らかに国是を定める」という詔勅(明定国是詔)を下し、変法は正式に開始された。
  
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梁啓超

 光緒帝は康有為からアイデアを得て、次から次へと改革の上諭を下した。皇帝の指示さえあれば新しい試みはおのずから緒につくかのようであった。

 制度局の設置、科挙の八股文【はっこぶん】の廃止、京師大学堂の設置、宗室・王公への外国視察の命令、中央各部の行政改革、梁啓超・譚嗣同【たんしどう】など変法派少壮官僚の抜擢、変法派の批判の的だった李鴻章の総理衙門【がもん】大臣の罷免……、このような上諭が連発されて、清朝の官界は中央・地方ともに一種のパニックに陥った。

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オランダの画家が描いた西太后

 特に、中央の制度局、地方の民政局という新しい政治制度導入の試みは、立憲君主制への移行をねらったものであったが、それまでの行政機構を全面的に改変してしまう構想であり、反発が大きかった。

 光緒帝は、変法の上諭を西太后の一応の了解、ないし黙認のもとで下していたのであるが、こうした大変革が現実化することでもたらされる混乱は、西太后にとって座視できないものとなっていた。張之洞のように、変法の必要を認めていた者も、あまりの急激な変化についていけなかった。

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栄禄

 西太后は、正式に変法が始まった直後に、軍機大臣の要職にあった皇帝の後ろ盾である翁同龢【おうどうわ】を免職して郷里に帰らせ、保守派の栄禄を抜擢して皇帝への牽制をはかっていた。中央、地方の大官たちは皇帝と西太后の力関係の中で状況がどのように変化するのか観望しており、変法の上諭はほとんど実践されることがなかった。

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袁世凱

 改革のゆきづまりに皇帝はいらだち、皇帝と西太后の最終的な破局にまで至ることが、しだいに避けられなくなった。改革に同情的な勢力には、むしろ改革をペースダウンして破局を避けようとする動きもあったが、光緒帝は譚嗣同の発案により北京周辺でもっとも強大な北洋軍の指揮権を握っている袁世凱を抱き込んで、力によって反対派を抑える道を探ろうとした。

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栄禄の殺害を命ずる

 9月18日、譚嗣同は深夜に袁世凱を訪ね、閲兵式の際に栄禄を殺害し、西太后を西山の離宮に押し込めるよにう命じた。狡猾な袁世凱は同意したふりをして、憤慨し激昂した様子で、「栄禄を殺すなんて、犬を殺すのと同じようなもんだ」と言った。

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栄禄に密告

 袁世凱は北京に数日いただけで、急いで天津に帰り、皇帝の計画を密告した。栄禄は情報を得ると、すぐに北京に赴いて西太后に報告した。

 西太后はただちに皇帝側の動きを封じ込め、逆に皇帝から政権を奪って再び垂簾聴政を開始した。9月21日、変法派官僚の大粛清が始まった。

ダウンロード (1) 
譚嗣同の処刑

 康有為と梁啓超は、北京の政局の推移を注視していたイギリス公使館、日本公使館によって、それぞれ危機一髪のところを保護され、いずれも日本に亡命した。しかし、光緒帝は幽閉され、譚嗣同は捕らえられて処刑された。

 譚嗣同は逮捕される直前、梁啓超から亡命を勧められると、「各国の変法は流血により成った。中国ではいまだ変法のために犠牲となった者がいない。これが国の振るわぬ原因である。先ず私が率先した」と応えたという。

 すべての改革が中止され、戊戌の変法はほぼ全面的に白紙に戻った。わずか3ヶ月程度で新政は終わりを告げたので百日維新と言われる。
 
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康有為

 日本では弟子の梁啓超らとともに改良派または保皇党と言われ、清朝の改革を唱えて日本の有力政治家に支援を求めた。彼らの主張は、あくまで清朝の改革であり、そのもとで立憲君主政を実現することであったので、続いて亡命してきた孫文らの清朝打倒、共和政樹立の革命運動とは対立した。

ダウンード 
北京大学 

 戊戌の変法で取り上げられた改革はほとんど陽の目を見なかったが、唯一実現したのが西洋式の大学の創設を目指した京師大学堂である。1898年に創設された京師大学堂は、後に北京大学を改称され、蔡元培学長の下で文学革命や、五・四運動の中心となり、中国近代化を牽引する役割を果たしていく。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/04/13 05:06 】

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