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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー洋を滅ぼす正義の拳・義和団事件

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ドイツが膠州湾を清から租借

  日清戦争の敗北をうけて、清朝内部で始まった康有為らの戊戌の変法はあくまで体制の上からの改革であり、一般民衆にはほとんど理解されていなかった。民衆はむしろ、帝国主義列強による侵略に対して本能的に反発し、西洋文明を拒否する動きを示した。

 西洋の医療は幼児の目をくりぬいて薬を作っているとか、鉄道や汽船は怪異なものであり、電信柱があるから雨が降らないのだ、などと信じ、またキリスト教徒が祖先の祭をしないことに伝統を壊すものという不快感を持った。そのような反西洋文明、反キリスト教の運動を仇教運動ともいう。

 そのような中で、1897年、山東省でドイツ人宣教師が殺害される事件が起こり、それを機にドイツは山東省一帯に進出し、さらに翌年、膠州湾を租借し、列強による中国分割に先鞭をつけた。

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義和拳の信者

 このような民衆の排外的・反キリスト教感情を煽動したのが、義和拳といわれる一種の宗教秘密結社であった。義和拳は、かつての白蓮教の流れをくみ、孫悟空や三国志の英雄を神と敬い、神が乗り移った者は、義和拳という拳法によって刀はおろか銃弾すら跳ね返すような不死身になると説き、民衆や遊侠の人々に広がった。

 義和拳の信者には、伝説上の英雄や仙人、神仏が乗り移り、超人的な力を振るうとされた。たとえば、孫悟空が乗り移った少女が、東京まで空を飛んで行って、賠償金を取り戻して来た、などと伝えられた。

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義和団の兵士

 義和拳のグループはやがて義和団を名乗るようになり、山東地方で外国人やキリスト教宣教師を襲撃しながら次第に大きな集団となっていった。

 1899年末、山東巡撫に赴任した袁世凱が義和団を弾圧すると、山東省から押し出された義和団は直隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団で溢れかえる事態に至った。

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天津の義和団

 直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった。

 山東から直隷に活動範囲を広げた義和団は、1900年4月、北京に入った。北京の保守派の皇族や高官の中には、義和団を「義民」として迎え入れようという動きが広まった。こうして、清朝の正規軍が警戒する中で、義和団が北京城内に入り緊張が高まった。

 北京の町は、「扶清滅洋」の旗を揚げて集まった20万の農民で埋め尽くされた。50年前の太平天国は北京を占領できなかったが、義和団はそれに成功したのである。

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オランダの画家が描いた西太后

 6月、日本公使館の書記官が清軍兵士に殺害された。宮廷では王公大臣や各部の長官などを集めた廷臣会議が開かれ、義和団をどのように扱い、列強の動きにどう対処するかをめぐって、6月16日に激論が戦わされた。

 数日後、列強の軍隊が大沽砲台を占領したという報告が入り、西太后は戦争を決断した。6月20日、ドイツ公使が北京市内で清軍の兵士に殺害された。

 翌21日、清朝は列強に宣戦の上諭を発した。義和団は、列国の公使館が集まっていた、紫禁城東南の東交民巷と呼ばれる区域を包囲した。この区域には1000名近い外国人と多数の中国人救民がいて、外国軍が北京に入るまで55日に及ぶ籠城戦が繰り広げられた。

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連合軍の兵士

 義和団鎮圧のために軍を派遣した列強は8カ国あり、上の写真の左から、イギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本である。写真には9人写っているが、左から4人目はイギリス領インドの兵士である。

 イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったため、連合軍の兵員1万9700人のうち、日本軍が9750人を占めた。

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北京城の攻防

 7月14日に連合軍は天津を占領し、天津から北京に向かった。8月12日に北京に隣接する通州を占領し、14日、公使館区域の包囲を解いた。この後、北京には1年間に及ぶ占領体制が布かれた。

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イギリス軍による寺院の焼き討ち
 
 北京を占領した連合軍は、明の『永楽大典』をほとんどすべて汚損したのをはじめ、紫禁城の宝物を略奪したり、王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、奪った宝物を換金するための泥棒市が立つほどであった。しかし、40年前に円明園を廃墟にしてしまったような大規模な破壊は行わなかった。

 日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、まず総理衙門と戸部を押さえて約291万4800両の馬蹄銀や32万石の玄米を鹵獲した。そのためか列国中戦利品が最も多かった。

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西太后北京を脱出

 西太后は北京陥落前に貧相な庶民に変装して紫禁城を脱出し、途中山西省大同などに寄りつつ10月西安に辿り着いた。彼女はアロー戦争の時にも熱河に逃げており、これが生涯2度目の蒙塵(都落ち)となった。

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珍妃

 この逃避行には光緒帝も同行させたが、彼の寵愛を独占する珍妃を宦官に命じて紫禁城寧寿宮裏にある井戸に落とし殺害させている。

 光緒帝を同行させたのは北京に残しておくことで列強を後ろ盾にした皇帝親政が復活する可能性を封じるためであり、珍妃の殺害を命じたのは彼女がやがて自身を凌駕する存在となることを西太后が危惧したことが原因だと言われる。

 珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔ったのは日本軍だった。

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西安での食事

 西太后は建前上、臣下に対して、現在は非常時であるから自分に対する接待も簡素にして費用を抑えるべし、と命じた。もちろん、それを額面通り受け取る野暮な官僚はいなかった。地方官僚は、西太后の歓心を得る千載一遇の機会であると考え、歓待のために出費を惜しまなかった。

 西安は地方都市なので、食事の質は北京とは比べものにならなかったが、それでも毎日、100品の料理が並んだ。食費は1日あたり銀200両(約1000万円)にのぼったが、西太后は「ずいぶん倹約できた」とうそぶいた。

 万事こんな調子で、西太后は、全国から西安に集まった税収を湯水のように使い。贅沢な衣装を新調し、家具調度品を整え、芝居を楽しんだ。

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北京議定書の調印

 北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して、1901年9月7日に北京議定書(辛丑和約)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。

 北京議定書では、4億5千万両という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款【こうしばいかん】と言われ、清朝にとって日清戦争での2億両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。

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西太后初めて列車に乗る

 北京議定書が締結されると、西太后はようやく重い腰を上げ、北京へ帰還することにした。西安から北京までの道のりは約1400キロ。帰京のためたった一度通るだけの道が、住民を動員して整備され、宿所として壮麗な行宮が37カ所も建設された。保定から北京までの最後の150キロの道のりは、特注のお召し列車に乗り、1902年1月7日、西太后は北京に戻った。沿道には、西太后の豪華な列車を一目見ようと、北京市民や外国人が集まった。

 1年4カ月前、庶民に変装して逃げ出した西太后は、意気揚々と北京に凱旋したのである。西太后の西安への逃避行は「庚子西狩」と呼ばれるが、この間に西太后のために費やされた清の国富は、総額で銀1億両(約5兆円)に達したと言われる。

  ダウンド (1)
光緒帝

 北京に凱旋してから6年後、西太后は1808年10月10日から6日連続で自らの誕生日を祝った。その直後の16日以降は体調が優れず、政務を休んで病床についた。数日間休めばまた回復して公務に復帰できると、この時は当人も医師も考えていた。

 西太后が臥せったのと同時に、光緒帝の病状が悪化した。光緒帝は10年に及ぶ幽囚生活の苦労とストレスのため、肺結核にかかり、心肺機能が低下し、慢性的な体調不良に悩まされていた。この年の7月頃には医師も全快を諦めるほど病状は悪化しており、10月中旬に入るといつ死んでもおかしくない状況になった。

ダウロード
3歳の溥儀(右) 
 西太后は10月20日夜、光緒帝の弟の子である溥儀を呼び、光緒帝の後継者に指名した。その翌日の10月21日酉の刻(午後5時から7時まで)、光緒帝が37歳で崩御。わずか2歳10カ月の溥儀が宣統帝として即位した。

 西太后は3度目の垂簾聴政を行うつもりであったが、光緒帝の訃報を聞いた西太后の容態が急変し、10月22日未の刻(午後1時から3時)彼女も息を引き取ったのである。享年74歳であった。
 

 光緒帝の死後24時間も経たぬうちに、西太后も亡くなったのである。偶然というには死亡時刻が近すぎるため、光緒帝の死は実は暗殺であった、という憶測が囁かれた。しかし、1980年に遺体を科学的に調査した結果、自然死であったという結論が出されている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/04/16 05:21 】

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