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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー革命いまだならず・孫文①

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孫文

 孫文は1866年に広東省香山県の貧農の家に生まれ、9歳にして父を亡くした。1878年、14歳の時に移民として成功していた兄を頼ってハワイに渡った。同地の高校で学び西洋思想に目覚めたが、母や兄が西洋思想、特にキリスト教に傾倒する孫文を心配し、1883年、19歳の時に中国に戻された。

 孫文はアメリカの民主主義社会の空気を体験して広東に戻り、香港の医科専門学校を首席で卒業し、マカオで開業して繁盛した。しかし、清仏戦争の頃から、個人を救う医師よりも危機の中国を救う国医となるほうが大切だとして、政治問題に関心を持つようになり、1894年、再びハワイに渡り華僑を中心に興中会を組織して、清朝打倒に立ち上がった。

 1895年日本との講和に反対して広州で武装蜂起したが失敗し、日本・アメリカを経てロンドンに渡り、同地の清国公使館に一時拘禁された経験を『ロンドン被難記』で発表し注目された。

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宮崎滔天

 1897年、宮崎滔天【とうてん】の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の屋敷は犬養毅が斡旋した。

 1899年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。以後、革命資金を集めるため世界中を回った。

 1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際、現地の多くのエジプト人に喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があると言われる。

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中国同盟会の結成

 1905年、ヨーロッパでの中国人留学生への運動を終えて日本に来た孫文は、同じく亡命中の華興会の黄興・宋教仁らと会談、革命勢力の大同団結を目指すことで一致した。

 7月30日、東京赤坂の黒竜会で約70名の中国人留学生に宮崎滔天や内田良平なども加わり、同盟会の準備会を開いた。清朝の打倒、共和政を目指すことでは直ちに一致したが、「平均地権」という孫文の提案は社会改革に及ぶ点なので同意を得るために時間がかかった。

 ついで8月20日、同じく赤坂の代議士坂本金弥宅で300名の代議員が集まり、正式な結成大会を開いた。孫文が総理、黄興は副総理格の庶務幹事となり、各省ごとの代表を置いた。正式には中国革命同盟会と称したが、「革命」という語が人々に恐怖心をあたえることを警戒して、対外的には単に中国同盟会と称した。

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『民報』創刊号

 機関誌『民報』は1905年11月26日、日本東京で創刊され、孫文は刊行にあたり初めて「民族の独立・民権の伸張・民政の安定」の三民主義を提案している。また、同盟会は綱領として「駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権」の四大綱領を掲げた。

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 1900年に義和団事件に際して清朝は列強と戦って敗れ、ついに政権内部でも立憲君主政への移行を模索する光緒新政といわれる動きが始まった。科挙の廃止や憲法大綱の制定など、一定の近代化を実現したが、清朝による満洲人の支配に対する漢民族の不満は解消されなかった。

 20世紀初頭、中国の民族資本家は利権回収運動を展開し、中国分割によって列強に奪われた鉄道敷設権や鉱山採掘権などの利権を中国人の手に回収しようとした。ところが、1911年に清朝政府が外国資本(四国借款団)を財源とした鉄道国有化政策を打ち出し、回収されたばかりの粤漢【えっかん】鉄道と川漢鉄道がターゲットになると、湖南、広東、湖北などの民族資本家や学生が中心となって国有化反対の運動が起こった。

 その中で最も激しい暴動が起こり、辛亥革命の発火点となったのが1911年8月の四川暴動であった。

 
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武昌蜂起

 四川暴動を鎮圧するために、政府は武漢駐屯軍に出動命令を出したが、武漢軍の中核をなす新軍には革命支持派が多く、ついに10月10日に新軍が反旗を翻し、武昌を占領、指揮官黎元洪【れいげんこう】が満州人国家に代わる漢人国家として中華民国の成立を布告した(正式には中華民国軍政府湖北都督府)。

 この年が辛亥の年に当たっていたため、ここから始まった革命は辛亥革命といわれることになる。

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中華民国軍政府湖北都督府の成立

 この報せは直ちに全国にもたらされ、各地で革命派が蜂起、翌月までに13の省が相次いで清朝からの独立を宣言した。

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袁世凱


 しかし、各省独立の実権を把握するものは多くは立憲派であり、革命派は実質的指導性をほとんど失っていたのが実情である。蜂起1カ月後の11月9日には、武昌で擁立された新軍指揮官黎元洪の名によって各省への呼びかけが行われたりした後、漢口において臨時政府組織大綱が定められ、袁世凱を大総統とする方向が決定された。

 一方、革命派は革命に際して上海・広東・安徽・四川などで指導的な地位を得るにとどまっていたが、情勢の変化から上海に各省代表を集めて南京に臨時政府の設立をはかり、謹厳実直で兵士に人気のあった黎元洪を軍政府都督に選出し、両者の対立と紛糾を招いた。


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中華民国臨時政府一次内閣の閣議 

 武昌蜂起に始まる侵害革命を孫文が知ったのはアメリカ滞在中のことであった。革命派に参加する省が増えるにつれて人事問題も再燃して難航したが、アメリカからロンドン経由で孫文が帰国したのは1911年12月25日で、翌日、総統選挙が行われ、17省のうち16省の票を孫文が獲得して当選した。

 孫文に対する革命派の期待は彼への人間的信望はもとよりであったが、彼が海外華僑からの資金を獲得するのに貢献するであろうとの期待があった。帰国した孫文には自らが総統になる気持ちもなく、財政問題については、確かに海外での募金活動も行ったが成果はなく、むしろ外交交渉に自らの役割を身い出していたから、彼に対する周囲の資金待望の空気をみて、「私には金はない。だが、革命精神だけは多すぎるくらいだ」と言い放っている。

 選挙結果は孫文にも予想外のことであったが、革命に賛同する民衆の希望が彼に集まったということであろう。こうして、1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立し、アジア初の共和国の誕生をみたのである。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/04/20 05:14 】

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