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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー日本とソ連に学んだ軍人・蔣介石①

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日本留学時の蔣介石

 蔣介石は1887年10月31日、塩や酒を扱う商人の子として浙江省で生まれた。母親が教育熱心であったことから、蔣介石は6歳から私塾や家庭教師に習い、中国の古典を学んでいった。実家は裕福であったが、父は蔣が9歳のときに亡くなり、以後は母の手によって育てられた。当時の中国の封建的な社会において、母子家庭の暮らしは厳しいものであった。

 10歳から16歳にかけて生地にあった毛鳳美の塾で学び、1902年には毛鳳美の娘の毛福梅と結婚。1904年からは浙江省に設けられた新制の教育機関である鳳麓学堂で英語や数学を学び、その後寧波の箭金学堂で西洋法律を学んだ。

 1907年に日本に留学し、陸軍士官学校の予備校として清朝が東京に設立した振武学堂を卒業、一年間にわたり新潟県高田の日本陸軍野砲兵連隊で士官候補生として入隊した。
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辛亥革命(武昌蜂起)

 日本で孫文が結成した中国同盟会に加わり、1911年に辛亥革命が起こると直ちに帰国して軍事面で活躍した。一方で上海で株の取引に関わったり、秘密結社である青幇【チンバン】のリーダーの杜月笙【とげっしょう】らと交遊し、清濁併せ呑むタイプだった。その後、中国国民党の軍人として孫文に従い、1923年には国民党の訪ソ団に加わってソ連赤軍を視察し、トロツキーから赤軍の組織原理を学んだ。

 11月25日のコミンテルンの席上、蔣が国民党を代表して行った演説が公然と批判された。この演説で蔣は孫文の三民主義を語り中国革命の意義を説いたのだが、ソ連では孫文と三民主義に対する評価は決して高いものではなかったのである。

 蔣はロシア語を学び、『共産党宣言』や『マルクス学説概要』を読んだりしていたことから、「赤い将軍」や「中国のトロツキー」とまで呼ばれていたが、孫文が批判されたことに衝撃を受け、ソ連への不信と共産党に対する警戒感を強くして中国に帰国した。

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軍官学校時代の蔣介石(右)と周恩来

 1924年5月、蔣介石は第1次国共合作で革命軍養成のために設立された黄埔軍官学校の初代校長に就任した。黄埔軍官学校はソ連の支援の下につくられたため、共産党員も教官となっており、後に西安事件で監禁された蔣介石を説得した周恩来は政治部副主任を勤めている。

 1925年3月12日、孫文が北京で客死。孫文死後、左右の対立が表面化したが、左派優位のもと、1925年7月、広州に汪兆銘を主席とする国民政府が誕生した。しかし、 1926年3月、蔣介石は中山艦事件を起こして汪兆銘を失脚させ、革命的左派分子を逮捕・追放して、軍・政両権を掌握した。

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五・三〇事件を風刺した当時の プロパガンダポスター

 一方、上海では1925年5月、日本人経営の在華紡の工場でのストライキ中に日本人監督が中国人組合指導者の一人を射殺するという事件が起きている。それに抗議した学生が抗議行動をおこなって多数が逮捕された。

 その裁判が行われた5月30日、青島でも日本資本の紡績工場で争議中の労働者が奉天派軍閥の保安隊によって射殺される事件が起き、抗議行動が一気に爆発し1万人の市民・労働者が集まった。上海南洋大学の学生を先頭にした「上海人の上海を」や「租界を回収せよ」と叫ぶデモ隊と上海租界のイギリス警官隊が衝突、警官隊の発砲によって13名の死者が出た。

 この事件(五・三〇事件)を契機に上海総工会(労働組合)ではゼネストを指令、イギリス・日本・アメリカ・イタリアの各租界当局が陸戦隊を上陸させ弾圧した。運動は香港にも広がり、ストライキを弾圧するイギリス・フランス軍により52名の労働者が殺害された。

 五・三〇運動と呼ばれるこの運動は、労働者・市民・学生が立ち上がった反帝国主義運動であり、世界に衝撃を与えた。

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  蔣介石は1926年7月、北京を支配する軍閥政府の排除をめざし、「北伐」を開始。共産党員の指導する農民運動に支援されて軍閥打倒は順調に進み、1927年3月には上海・南京を占拠した。

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宋靄齢(右は夫の孔祥熙)

 その頃、上海では五・三〇運動を指導した共産党が勢力を拡大し、北伐軍が到着する前、周恩来などに指導された労働者が武装蜂起、軍閥軍を撃退し臨時政府を樹立していた。

 3月26日、蔣介石が上海に入ると、資本家の団体である上海総商会は彼に早期の安定回復を求めた。特に浙江財閥を代表する宋家一族の長女、宋靄齢【あいれい】は蔣介石個人に財政援助を申し出るとともに、労働運動によって上海租界が回収され、貿易に支障をきたすことのないよう訴えた。

 共産党指導下の労働組合である上海総工会は、蔣介石に反対して大規模なストライキを計画していたという。

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杜月笙

 また国民党内でも共産党の行動を「行き過ぎ」と批判する声が強まった。北京大学学長を辞任し国民党の元老となっていた蔡元培は非暴力の立場から、共産党が国民革命を破壊していると批判した。

 こうした内外の圧力を背景に、蔣介石は共産党との決別を決意した。4月12日、戒厳令を実施させると自らは上海を離れて、共産党弾圧の汚れ役は、杜月笙【とげっしょう】の率いる秘密結社青幇【チンバン】などに押しつけた。

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上海クーデタ時の共産党員たち

 国民党第26六軍は武装労働糾察隊を武装解除し、糾察隊員数十人を殺害した。13日、上海の労働者はこれに対しゼネストで抗議し、10余万人がデモに移った。蒋はこのデモ隊にも発砲し、閘北【こうほく】宝山路で100余人を殺した。こうして12日からわずか3日間で3000余人が殺され、5000人が行方不明となった。周恩来は脱出に成功したが、共産党は上海から排除されてしまう。

 クーデタから6日後の4月18日、蔣介石は南京に国民政府を樹立。汪兆銘が1927年1月に設立した武漢政府にはなおも共産党員が残ったが、同年7月には離脱し、第1次国共合作はこれによって瓦解した。

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宋家の三姉妹

  上海クーデターで共産党を排除することに成功した蔣介石と、上海の資本家浙江財閥の結びつきは強まり、同年9月、蔣介石と宋靄齢の妹の宋美齢との結婚が成立した(最初の妻・毛福梅は1921年に死去。2度目の妻・陳潔如とは宋美齢との結婚のために離婚した)

 宋姉妹の次女宋慶齢は孫文夫人であったので、蔣介石は孫文の義理の弟ということになり、中華民国指導者としての正当性を獲得するという、絶大な政治的効果を生んだ。

 なお宋美齢は若い頃アメリカで育ち、英語が堪能なクリスチャンであった(その影響で蔣介石もクリスチャンになった)。西安事件で蔣介石が監禁されたときは自ら西安に飛び、共産党と交渉したり、日中戦争の時期はアメリカで盛んに中国支援を訴えた。2003年10月、ニューヨークにおいて103歳で亡くなっている。(つづく)

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/04/27 05:10 】

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