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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラルクワールドー日本とソ連に学んだ軍人・蔣介石②

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 北伐の過程で、1927年3月24日に南京事件、4月3日に漢口事件が起こって、日本人の生命財産が侵害された。同じく租界を攻撃されたイギリス初め各国の公使は会議を開き、守備兵力の倍増がフランス公使によって提議された。

 この時、日本の政権は憲政会の第1次若槻内閣であり、幣原喜重郎外務大臣は不干渉主義を保持していた。

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田中義一

 4月20日、若槻内閣に代わり立憲政友会の田中義一内閣が誕生した(外相は田中が兼任)。

 国民革命軍が山東省に接近すると、5月27日、政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省への陸軍の出兵に踏み切った。日本軍が山東省に進出して牽制したために、国民党の北伐は一時中止された。

 翌1928年4月、北伐が再開され、国民革命軍が山東地域に迫ってくると、田中内閣は第2次山東出兵を実行した。5月には、日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突し済南事件が起こった。日本側は23名、中国側は1000名の死者を出した。

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破壊された済南城南門

 山東出兵で派兵された日本軍は最終的には約10万にふくれあがり、中国側死傷者は約5000人を超えた。中国兵及び中国の民衆は日本兵・日本人に対する憎しみを募らせ、居留民保護どころか、在留邦人がしばしば襲撃され、それを受けて日本軍が増強されるという悪循環を重ねた。

 中国民衆は憤激したが、蔣介石は日本軍との全面衝突を避け、本隊は済南を迂回させ、北京を目指すこととし、1928年6月8日、北京に入城した。ところが、その4日前の6月4日に満州某重大事件が起きる。

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張作霖

 張作霖は祖父の代に奉天近くに移住してきた漢人で、貧しい農民として生まれ、若くして馬賊に加わり、勇気と行動力でその頭目にのし上がった。馬賊とは満州の平野を騎馬で疾走する武装盗賊団のことだが、彼らは単なる盗賊ではなく、有力者に雇われて縄張り内の貨物や人員の輸送の護衛を請け負い、「保険隊」ともいわれた。

 張作霖はさらに有力者の娘と略奪婚で結婚し、質屋や油屋も営んで財を設け、配下を増やしたという。彼は義和団事件以後ロシアの満州進出に備えて清朝が馬賊を正規軍に編入した時に帰順し、次第に奉天を中心とした大勢力となり、辛亥革命後はたびたび北京進出をねらい関内に入った。はじめ直隷派と結んで安徽派段祺瑞政権を倒し、ついで直隷派と争って1924年には北京の実権を握り、27年には大元帥となった。

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 炎上する張作霖の乗った列車

 1928年6月4日、北伐軍に追われ北京を撤退し、奉天(現在の瀋陽)に戻る途中の張作霖が列車ごと爆破され殺された。当時の日本では事件の詳細は報道されず「満州某重大事件」または「奉天事件」といわれただけで、その真相を国民が知ることはなかった。

 その事実が判明したのは第二次世界大戦が終わった後のことであった。

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河本大作

 戦後の東京裁判などの過程で、この事件は日本の関東軍(南満州鉄道の保護などを目的に設置された日本の軍隊)の河本大作参謀が中心になって実行された犯行であったことが明らかになった。
 当時日本の関東軍は、満州で最も有力であった奉天派の軍閥・張作霖を利用して満州における支配権を強めようと画策していたが、張作霖は日本に非協力的であり、役に立たないと判断し、その張作霖が蔣介石に北京を追われ、満州に戻ってくる機会に一挙に葬って満州の実権を握ろうとしたのであった。この謀略を、関東軍の河本大佐らは政府や陸軍上層の許可を取らずに単独で実行した。

 
しかし国際的には日本の謀略であることが疑われ、政府・陸軍も河本大佐の単独犯行であると認めざるを得なくなり、ひそかに河本を退役させた。しかし、日本の不利益になるとして軍法会議にかけることはしなかった。

 田中義一内閣の処置に不満を持った昭和天皇が直接首相を難詰したため、田中首相は総辞職するという結果となった。


張学良 
張学良

 張作霖の後を継いだ息子の張学良は、親の恨みがあるから、日本の言うことを聞くはずがなかった。彼は日本の執拗な妨害・恫喝に屈することなく、歳も押し詰まった12月29日、「易幟【えきし】」を行った。

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五色旗(左)と青天白日満地紅旗(右)

 易幟とは、旧来の北京政府時代の国旗「五色旗」に代えて、南京国民政府の新しい国旗「青天白日満地紅旗」を掲げることである。つまり張学良は南京政府を中国の中央政権と認め、その東北地方の支配者として行動する、との意志表示をしたわけである。ここに北伐が終わり、南京政府による中国統一が完成した。

 このように関東軍の謀略は何の効果もなく、かえって満州情勢を不利なものにする結果を招いた。関東軍はそのような状況の悪化を一気に覆すため、高級参謀の土肥原賢二や石原莞爾などが新たな謀略を進め、1931年に満州事変を引き起こし、中国への侵略を開始することとなる。(つづく)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/04/30 05:04 】

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