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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラルクワールドー日本とソ連に学んだ軍人・蔣介石③

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蔣介石

 北伐の完成後、蔣介石は「中華民国」の中心にあって独裁的な権力を振るい、アメリカ・イギリスの支援と浙江財閥の援助によって中国共産党との戦いを進めていく。

  1931年、満州事変が起こり日本の中国侵略が開始されてもそれとの対決を避け、共産党勢力との戦いを優先(「安内攘外」策という)し、日本軍と塘沽【タンクー】停戦協定を締結した。

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長征

 一方で共産党への攻勢を強めて、1934年には瑞金の共産党政府を西遷(長征)させ、延安に追いやった。

 翌1935年には蔣介石は支持基盤である浙江財閥の財力を背景に、懸案の通貨統一(幣制改革)を行い、中国の経済的統一を図った。

張学良 
張学良

 かつて父の張作霖を日本軍の謀略である張作霖爆殺事件で殺されていた張学良は拠点の満州を日本軍に奪われ、東北軍を率いて易幟【えきし】を行って国民党政府とともに戦うことを表明したが、肝心の蔣介石が共産党との内戦を優先させて日本軍との戦いを極力避けていることに不満を持っていた。

 1935年8月、共産党は八・一宣言をを出して、内戦停止・抗日民族統一戦線結成を呼びかけた。当時西安にいて、長征を終えて陝北に着いた共産党討伐を命ぜられていた張学良は、これに感動し、抗日のための共同行動を共産党と密かに相談するようになっていた。

西安の蒋介石(左)と張学良(左) 1936年12月 
西安の蔣介石と張学良

 1936年12月4日、共産党の討伐が進まないことに業を煮やした蔣介石が、国民党軍を督励するために西安に乗り込んで来た。

 張学良は十七路軍の楊虎城とともに内戦停止を訴えたが容れられず、12月12日、兵を動かして蔣介石を監禁し、内戦を停止すること、南京政府を改組し諸党派共同しての救国にあたること、政治犯の釈放、民衆愛国運動の解禁など8項目を要求した。


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周恩来

 蔣介石は当初拒絶したが、張学良の要請で西安に来た共産党の周恩来(かつて黄埔軍官学校で蔣介石の部下だった)らが説得、蔣介石夫人の宋美齢も上海から飛行機で駆けつけて夫を説得し、8項目に合意し釈放された。

 張学良は「兵諌」(兵を勝手に動かし、上官に諌言したこと)の責任を負って軍法会議にかけられることを望み、蔣介石に同行し、以後国民党の監視下に置かれる。この張学良が身を挺して蔣介石に内戦停止を迫ったことが、中国を勝利に導く大きな転換点となった。

 ちなみに、張学良は戦後も国民政府と共に台湾に移って軟禁状態で生涯を送り、2001年に100歳で死去している。

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カイロ会談

 1937年に日中戦争が始まると毛沢東の指導する共産党との第2次国共合作に合意、抗日戦争を指導した。日本軍の攻勢を避け、重慶に政府を移し、援蔣ルートによるアメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けて抵抗を続けた。

 1941年に第二次世界大戦に拡大すると連合国の一員となり、19433年11月にはカイロ会談に参加して英米首脳と対日戦後処理を話し合った。1945年7月のポツダム宣言には署名で加わった。

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重慶会談で祝杯をあげる蔣介石(右)と毛沢東(左)

 1945年の日本軍降伏後も、両軍は一触即発であったが、とりあえず軍事解決を棚上げして、8月末に蔣介石と毛沢東による重慶会談を開催し、ようやく10月に「双十協定」を締結して、「政治協商会議」を開催して統一の道筋を探ることとなった。
 
 
1946年1月、国共両党および他の党派の代表が集まり、政治協商会議が開催され、統一政府の設立では合意が成立したが、それぞれの軍事力の統合では利害の対立が明確になった。

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ジョージ=マーシャル

 共産党はその支配下の解放区で、「減租減息」(小作料と利息の減額)を実施して民衆の支持を広げていった。アメリカも国共内戦の勃発を恐れ、マーシャル特使を派遣して斡旋を試みた。

 しかし最終的な合意に至らず、ガラス細工のような国共協調路線も、ついに破綻を迎え、1946年6月26日、本格的な国共内戦が再び勃発した。

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人民解放軍に占領された南京の総統府
 
 当初は国民党が圧倒的に優位で(兵力は国民党430万、共産党120万、支配地域の人口は国民党約3億3900万、共産党約1億3600万)、おおむね共産党から見れば1対3であり、状況は厳しかった。1947年6月には共産党の拠点延安も陥落した。

 しかし、共産党はソ連が支配している東北地方に勢力を移して反抗の準備を強化した。こうして1949年9月から有名な、遼瀋戦役・淮海戦役・平津戦役の三大戦役で人民解放軍が勝利し、1949年1月31日、国民党の北京守備隊は自らの判断で降伏、共産党人民解放軍が無血入城した。

 さらに人民解放軍は、国民政府の首都南京に4月24日に入城、国民党首脳は広州、さらに重慶に逃れて抵抗したが、12月までにほぼ国民党軍を降伏させた。
 
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 台湾中正紀念堂の蒋介石像

 この間、毛沢東は1949年10月1日、北京で中華人民共和国の樹立を宣言、一方の蔣介石は重慶などを経て、12月に成都から、息子の蔣経国とともに飛び立ち、台湾に逃れた。

 蔣介石は1950年3月1日、台北で総統に復帰し中華民国を存続させ、1975年に死去するまで独裁権力を誇った。

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台北の国立故宮博物院

 蔣介石は紫禁城(故宮)の所蔵品を戦火から守るべく重要文物を南方へ疎開させ、1933年2月から5月までの間に1万3,427箱と64包に及ぶ所蔵品が、上海を経て南京に運ばれた。 

 1937年に日本軍が南京に向けて進軍してきたために、所蔵品は再び運び出されて80箱が四川省の巴県に、9,331箱が楽山に、約7,287箱が峨眉の計3カ所に避難させられた。

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国立故宮博物院の名品・翡翠白菜

 第二次世界大戦後、運び出された所蔵品は重慶を経て再び南京・北京に戻されたが、国共内戦が激化するにつれて、蔣介石の形勢が不利になったため、1948年秋より中華民国政府は北京の故宮博物院から第一級の所蔵品を精選し、5,525箱の文物が3回に分けて台湾に運び出された。

 したがって、故宮博物院の所蔵品は、中華人民共和国北京市と中華民国台北市の2カ所に別れて展示されている。これとは別に所蔵品の一部は、国共内戦後の中華人民共和国建国後の混乱のため、北京市に戻すことができず、現在も南京博物院の管轄下で南京市に保管されている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/05/04 05:08 】

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