なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ガンディーは1869年、インド西部のカチャワール半島の商業カーストに生まれた。マハトマ=ガンディーとして知られるが、本名はモーハンダーズ=カラムチャンド=ガンディー。マハトマは〝偉大なる魂〟の意味で、インドの詩聖タゴールから贈られた尊称である。
父親はその地方のいくつかの藩王国の宰相を歴任した。母は熱心なヒンドゥー教徒(ヴィシュヌ派)の信仰を持ち、ガンディーは生涯母を思慕し、菜食主義や断食などの教えを守った。ラージコートで小学校から高等学校まで学ぶ。学校でのガンディーは勉強好きだが内気な少年であったという。
小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。
父親はその地方のいくつかの藩王国の宰相を歴任した。母は熱心なヒンドゥー教徒(ヴィシュヌ派)の信仰を持ち、ガンディーは生涯母を思慕し、菜食主義や断食などの教えを守った。ラージコートで小学校から高等学校まで学ぶ。学校でのガンディーは勉強好きだが内気な少年であったという。
小学校時代は素行も悪く、悪友にそそのかされて、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返していただけでなく、タバコにも手を出し、タバコ代を工面する為に召し使いの金を盗み取ったこともあった。
カストゥルバ
13歳の時に兄たちと一緒に結婚するが、これは当時の幼児婚の習慣に従ったものであった。妻カストゥルバとの間には18歳の時の長男を含め3人の子供をもうけた。
1888年、18歳の時に弁護士になることを目指しイギリスに留学する。カーストのメンバーから反対されながら決行したことであった。ロンドン大学などで猛勉強して弁護士資格をとり、一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。その条件は身体を牛の糞などで浄め(最も清浄なものとされていた)てカーストに復帰することだったので、それに従った。
しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうまくいかず、傷心のうちに南アフリカで成功したインド人商人の依頼で1893年にアフリカに渡った。
1888年、18歳の時に弁護士になることを目指しイギリスに留学する。カーストのメンバーから反対されながら決行したことであった。ロンドン大学などで猛勉強して弁護士資格をとり、一旦帰国し、弁護士として活動を開始した。その条件は身体を牛の糞などで浄め(最も清浄なものとされていた)てカーストに復帰することだったので、それに従った。
しかし、インドでの弁護士活動は不慣れのためかうまくいかず、傷心のうちに南アフリカで成功したインド人商人の依頼で1893年にアフリカに渡った。
当時、南アフリカにはブール人の建てたナタール、トランスヴァール、オレンジ自由国の三国があり、金やダイヤモンドが発見され、インド人移民(印僑)がその労働力として大量にやって来ていた。彼らはクーリー(苦力)といわれて苛酷な年季労働に従い、激しく差別されていた。
ガンディー自身もダーバンからプレトリアに向かう列車で、乗車を拒否されるという目に遭う。さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士として差別との戦いが始まる。
ガンディーはまずインド国民会議派に倣い、ナタール=インド人会議を発足させ、その書記となって1906年、トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対する闘いを始めた。その闘いは登録証を集団で焼き払うというもので、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動の始まりだった。
ガンディー自身もダーバンからプレトリアに向かう列車で、乗車を拒否されるという目に遭う。さまざまな差別に逢いながら、インド人唯一の弁護士として差別との戦いが始まる。
ガンディーはまずインド国民会議派に倣い、ナタール=インド人会議を発足させ、その書記となって1906年、トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対する闘いを始めた。その闘いは登録証を集団で焼き払うというもので、ガンディーが編み出した非暴力・不服従運動の始まりだった。
ガンディーはその思想をイギリス人思想家ラスキンの著作から着想を得、ヒンドゥー教の『バガヴァッド=ギーター』に述べられている不殺生(アヒンサー)の精神によって根拠づけ、その運動はサティヤーグラハと名付けられた。
サティヤーグラハとは‘真理の把持’という意味であるが、その後ガンディーの指導する非暴力・不服従という新たな手法の運動をそのように呼ぶようになる。彼はその理念を主著『ヒンドゥー=スワラージ』(1907年)で明らかにした。
1915年、インドに22年ぶりに帰り、国民会議派の穏健派の指導者ゴーカレーに請われてそれに加わり、アーメダバードにサティヤーグラハの道場(サーバルマティ・シュラム)をつくって活動を開始、各地をめぐって労働者の争議や農民の反税闘争を指導してインド民衆の心をつかんでいった。
第一次世界大戦中、インドは戦後の自治承認を期待し、100万人以上の兵力と3億6000万ポンドの戦費を負担してイギリスに協力した。ニューデリーにあるインド門は、第一次大戦のインド兵戦死者6万人の慰霊のために建設されたものである。
しかし、大戦後の1919年インド統治法は、州行政の一部をインド人に委ねただけで、自治とは程遠い内容であった。また、これと同時に、逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄できる権限をインド総督に与えるローラット法を制定したため、インド各地で激しい反対運動が起こった。
しかし、大戦後の1919年インド統治法は、州行政の一部をインド人に委ねただけで、自治とは程遠い内容であった。また、これと同時に、逮捕状なしに逮捕し、裁判なしに投獄できる権限をインド総督に与えるローラット法を制定したため、インド各地で激しい反対運動が起こった。
ガンディー
これに対し、ガンディーは「われわれはパンを求めて、石を与えられた」として、1919年4月9日、民衆に一斉休業(ハルタール)を呼びかけた。それは一日の仕事を休んで断食することでイギリスに抗議しようとするもので、デリーをはじめ各地で実行された。第1次非暴力・不服従運動(第1次サティヤーグラハ運動)の始まりである。
それは大きな運動となって行ったが、それに対してイギリス当局は暴力をもって弾圧に当たり、一部では民衆も反撃し、暴力事件に転化してしまった。
特にパンジャーブ地方のアムリットサールやラホールでは暴徒が銀行や郵便局に放火し、イギリス人を殺害するという事件が起こった。ガンディーはこの暴走を抑えようとパンジャーブに向かったが途中で逮捕されてしまう。
それは大きな運動となって行ったが、それに対してイギリス当局は暴力をもって弾圧に当たり、一部では民衆も反撃し、暴力事件に転化してしまった。
特にパンジャーブ地方のアムリットサールやラホールでは暴徒が銀行や郵便局に放火し、イギリス人を殺害するという事件が起こった。ガンディーはこの暴走を抑えようとパンジャーブに向かったが途中で逮捕されてしまう。
1919年4月13日、ガンディー逮捕に憤激したアムリットサールの民衆は、集会禁止にもかかわらず2万人が結集して抗議をはじめたが、それに対してダイヤー将軍の指揮するイギリス軍(ネパール人のグルカ兵が動員された)が無防備の群衆に発砲し、379名を殺害、多数の負傷者を出した(会議派の調査では死者1200名、負傷3600名)。
無抵抗の民衆を無差別に殺害
出入り口の一つしかない公園に軍隊と機関銃を配し、高い塀をよじ登って逃げようとする人々に‘弾がなくなるまで’撃ち続けた行為は、イギリス人の残虐さを象徴するものとしてインド人を震え上がらせ、また憤激させた。
続いて、パンジャーブに戒厳令が敷かれ、無差別逮捕、公開鞭打ちなども行われているのに、何が起こっているのか他州に極秘にされたことも、イギリスへの不信となった。
さらにこの処理をめぐるイギリス人の態度も、インド人の神経を逆撫でした。たとえばこの事件の責任者ダイヤー将軍には‘帝国の功労者’として一般人から募った2万ポンドが贈られたのであった。
続いて、パンジャーブに戒厳令が敷かれ、無差別逮捕、公開鞭打ちなども行われているのに、何が起こっているのか他州に極秘にされたことも、イギリスへの不信となった。
さらにこの処理をめぐるイギリス人の態度も、インド人の神経を逆撫でした。たとえばこの事件の責任者ダイヤー将軍には‘帝国の功労者’として一般人から募った2万ポンドが贈られたのであった。
ガンディーは、この事態に、自らのサティヤーグラハ運動が十分理解されていなかったことに気づき、「ヒマラヤの誤算」であったとして、一時運動を停止してしまう。
なぜそれが誤算だったのか、自伝で彼は次のように言っている。
「考えてみると、早すぎた非服従運動のように私にはみえたからであった。……人が非服従運動の実践に適するようになるには、その前に、国家の法律に積極的かつ尊敬をこめてた服従を行っていなければならなかった。たいていの場合、私たちは、法律に違反すると罰せられる恐れから法律に服従している。
……けれどもこのような服従は、サッティヤーグラハに要請されている積極的自発的な服従ではない。サッティヤーグラハ運動者は社会の諸法律をよく理解し、そして彼自身の自由意志からそれに服従する。それはそうすることが、彼の神聖な義務だと考えているからである。このように一人の人が社会の諸法律に忠実に服従しているときに初めて、彼はどの特定の法律が善で公正であるか、そしてどれが不公正で邪悪であるかについて、判断を下すことができる。
その時になって初めて、はっきりと規定された状況のもとに、ある法律に対して非服従を行う権利が生まれるのである。私の過ちは、私がこの必要な限定性を守らなかったところにある」(『ガンジー自伝』)(つづく)
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