なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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第一次世界大戦の終結に伴い、連合国はセーヴル条約の過酷な要求をオスマン帝国のスルタン政府に突きつけ、カリフの権威は危機に陥った。その時、インドのイスラーム教徒(ムスリム)の中に、イスラーム世界の最高権威であるカリフを援護すべきであるという運動が起こった。
それをヒラーファト運動という。ガンディーはサティヤーグラハを掲げて反英闘争を展開する上で好機と捉え、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が協力してイギリスに対する新たな「非協力」戦術を提起した。
国民会議派も1919年末、春に惨劇のあったアムリットサールで大会を開き、イギリスに対するあらゆる非協力を決定し、宗教の壁を越えて1920~21年に「非協力運動」という反英闘争が盛り上がった。
それをヒラーファト運動という。ガンディーはサティヤーグラハを掲げて反英闘争を展開する上で好機と捉え、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が協力してイギリスに対する新たな「非協力」戦術を提起した。
国民会議派も1919年末、春に惨劇のあったアムリットサールで大会を開き、イギリスに対するあらゆる非協力を決定し、宗教の壁を越えて1920~21年に「非協力運動」という反英闘争が盛り上がった。
ガンディーが粗末な綿布の衣装(ドーティ)をまとい、手紡ぎ車(チャルカ)の前で糸を紡いでいる写真をよく見かける。
これは、国民会議派のスローガン、国産品愛用(スワデーシ)を具体化しようとしたガンディーが進めた、カーディ(手織り布地)運動の象徴だった。ガンディーはすでに全く忘れられていた手紡ぎ車で綿布を織る技術を再現しようとして奔走し、そのやり方を学び、自ら紡ぐことでその運動を広めようとしたのだった。
カーディを着た素足のガンディーが手紡ぎ車を回す姿は、民衆に広く運動の本質を教える方法となった。
これは、国民会議派のスローガン、国産品愛用(スワデーシ)を具体化しようとしたガンディーが進めた、カーディ(手織り布地)運動の象徴だった。ガンディーはすでに全く忘れられていた手紡ぎ車で綿布を織る技術を再現しようとして奔走し、そのやり方を学び、自ら紡ぐことでその運動を広めようとしたのだった。
カーディを着た素足のガンディーが手紡ぎ車を回す姿は、民衆に広く運動の本質を教える方法となった。
全国でイギリス製綿布を焼き捨てたり、役人は仕事を休んだり、学校は自主的に休校したりするなど、非協力運動を進めた。1913年にアジア人初のノーベル賞(文学賞)を受賞した詩人タゴールは、非協力運動の行き過ぎを危惧してガンディーを批判した。それに対してガンディーは「タゴールも紡ぐがいい。他の人々と同じように!」といって反論した。
しかし、タゴールの危惧したように、高揚した民衆の中に次第に非暴力の枠を逸脱する者が現れた。1922年2月5日に連合州のチョウリ=チョウラという村で警官の発砲に怒った民衆3000人が警察署を襲撃、22名の警官を殺害するという事件が起きた。
知らせを聞いたガンディーは大きな衝撃を受け、会議派に対して運動の中止を命じた。この突伝の中止に多くの国民会議派の活動家はとまどい、民衆は憤激した。またムスリムは聖戦(ジハード)を放棄するものとして非難した。しかし、ガンディーの決意は固く、こうして大きな成果はなく収束に向かい、ガンディー自身も逮捕されて運動は終わった。
しかし、タゴールの危惧したように、高揚した民衆の中に次第に非暴力の枠を逸脱する者が現れた。1922年2月5日に連合州のチョウリ=チョウラという村で警官の発砲に怒った民衆3000人が警察署を襲撃、22名の警官を殺害するという事件が起きた。
知らせを聞いたガンディーは大きな衝撃を受け、会議派に対して運動の中止を命じた。この突伝の中止に多くの国民会議派の活動家はとまどい、民衆は憤激した。またムスリムは聖戦(ジハード)を放棄するものとして非難した。しかし、ガンディーの決意は固く、こうして大きな成果はなく収束に向かい、ガンディー自身も逮捕されて運動は終わった。
また、トルコではカリフが退位したためにヒラーファト運動も目的を失い、再びヒンドゥーとムスリムの対立(コミュナリズム問題)が深刻になっていった。ガンディー自身も1922年から24年まで獄中で暮らし、紡ぎ車で糸を紡ぐことと読書ですごした。
1920年代には、ロシア革命とソ連の出現の影響もあって、社会主義・共産主義・労働運動などの新しい運動がインドにも生まれ、ガンディーにも影響を与えたが、ガンディーは一貫して反近代、反西欧の姿勢を守り、戦争や革命に対しても非暴力の立場から常に反対を続けた。
1920年代には、ロシア革命とソ連の出現の影響もあって、社会主義・共産主義・労働運動などの新しい運動がインドにも生まれ、ガンディーにも影響を与えたが、ガンディーは一貫して反近代、反西欧の姿勢を守り、戦争や革命に対しても非暴力の立場から常に反対を続けた。
サイモン
1927年、イギリスはインド統治法改正のための憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を発足させたが、そこにはインド人は一人も含まれていなかった。このことでインドでは再び反英気運が盛り上がり、各地で「サイモン帰れ!」の大合唱が起こった。
インド国民会議派でも対抗して独自の憲法草案の作成に入ったが、段階的な自治の実現を目指す穏健派と、即時に完全な自治の実現を要求する急進派が対立し、また統一政府を志向する国民会議派に対して、分離選挙に固執するムスリムも反発、運動は分裂した。
インド国民会議派でも対抗して独自の憲法草案の作成に入ったが、段階的な自治の実現を目指す穏健派と、即時に完全な自治の実現を要求する急進派が対立し、また統一政府を志向する国民会議派に対して、分離選挙に固執するムスリムも反発、運動は分裂した。
その情勢でガンディーの指導力が再び期待され、彼が再び表舞台に立つこととなり、巧みな調整で1929年12月29日のラホールでの国民会議派大会ではネルーら急進派の意見を実現させ、「「完全独立」(プールナ=スワラージ)」を掲げることになった。
その背景にはイギリスでマクドナルド労働党内閣が成立したこと、また世界恐慌がインドにも影響し農村の貧困がいっそう深刻になってきたことがある。
その背景にはイギリスでマクドナルド労働党内閣が成立したこと、また世界恐慌がインドにも影響し農村の貧困がいっそう深刻になってきたことがある。
こうした中、ガンディーは再びイギリスに立ち向かうことになる。(つづく)
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