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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー放浪の革命家・ホー=チ=ミン

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ホー=チ=ミン

 ホー=チ=ミンは1890年5月19日に生まれたと言うが、正確にはわからない。また30年間も海外で革命運動に従事して「放浪の革命家」と呼ばれ、その間、パリ、モスクワ、広東でいくつかの偽名を名乗っていた。

 本名はグエン=シン=クン( 阮生恭)といい、最も好んで使った偽名がグエン=アイ=クォック(阮愛国)だった。ホー=チ=ミン(胡志明)と言う名は、1942年に中国に潜入したときに使ったものである。

 彼はフランスや中国で獄中生活を送り、何度か死亡説が流れるなど、ベトナム本国での活動歴は少なかったが、1945年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言の時、初めて国民の前に姿を現し、その熱弁と親しみやすい顎髭を生やした風貌から「ホーおじさん」(ベトナム語では「バック=ホ」)と慕われている。

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フランス時代のホー=チ=ミン

 ホー=チ=ミンはベトナム中部のゲアン省ナムダン県で生まれた。父の儒学者、グエン=シン=サックの影響を受け、幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に出仕するようになると父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになった。しかし、在学中に農民の抗税運動に携わったためにフランス当局から目を付けられて退学処分となった。

 その後、船の見習いコックとして採用された21歳のホー=チ=ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへ渡った。ロシア革命の影響でマルクス=レーニン主義に近づき、1920年12月フランス共産党の創立大会に参加、機関誌『ル=パリア』の編集に活躍した。

 1923年ソ連に渡り、第5回コミンテルン大会でアジア担当の常任委員に選出され、コミンテルンの指示によって広東に赴き、1925年、広州でベトナム青年革命同志会を創立、さらに1930年香港でベトナム共産党を結成した。

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サイゴン市内の日本軍(1941年)

 日本軍がベトナムに進駐した1941年に、雲南省から国境を越えて30年ぶりにベトナムに戻った。ここでベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織して、その主席に就任し、これまでベトナムを支配してきたフランスに替わり、新たにベトナムの事実上の宗主国的存在になった日本に対する武装闘争の準備に着手した。

 
しかし、ベトミンは軍事力が弱く、1942年8月に中華民国に赴いて、日本軍と戦っていた蔣介石に協力を求めようとした。この時から、従来の「グエン=アイ=クオック」ではなく「ホー=チ=ミン」の名を使うようになった。

 中華民国との協力関係を結ぼうとしたが、1942年8月、中国国民党によって逮捕され、1943年9月までを牢獄で過ごすことになる。周恩来の助けで釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。

八月革命 
八月革命

  1945年8月15日、大日本帝国がポツダム宣言を受諾した旨が短波放送による玉音放送で伝えられ、ベトナムが事実上無政府状態となると、8月16日に国民大会を開催して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出し、全国総蜂起のアピールを発した。

 
こうして、ベトミンの指導下における「八月革命」が始まった。8月19日ハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握。サイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホー=チ=ミンは首相兼外相に選出された。

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建国宣言をするホー=チ=ミン

 8月30日にバオ=ダイが退位し、日本の傀儡国家となっていた阮朝・ベトナム帝国が滅亡した。かくして大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった同年9月2日、ホー=チ=ミンはハノイにおいてベトナム民主共和国の独立を宣言し、大統領に就任した。

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バオ=ダイ

 1945年12月17日、植民地支配の復活をもくろむフランス軍がベトナム民主共和国軍への攻撃を開始。12月19日、ホー=チ=ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して抗戦を開始し、インドシナ戦争が開始された。

 当初フランスは首都ハノイを押さえ優位であったが、ベトミン軍のゲリラ攻撃に悩まされ農村部を支配できず、戦闘の長期化に国内にも厭戦気運が高まってきた。1949年にフランスはバオ=ダイを擁立してベトナム国を樹立した。

 アメリカ(トルーマン政権)は当初、フランスの植民地主義を批判し、援助に積極的でなかったが、1949年10月、中華人民共和国が成立するとアジアの共産主義化を恐れ(ドミノ理論)、ベトナムのフランス軍を全面支援することとなり、インドシナ戦争は一挙に国際的な問題と化した。

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ジュネーヴ会議でのホー=チ=ミンと周恩来

 1954年、停戦交渉がジュネーヴで開催され、その最中の5月にフランス軍がディエンビエンフーの戦いで敗北。7月21日にジュネーヴ休戦協定が成立して和平が実現した。

 
これによってフランスはインドシナから完全に撤退することとなったが、替わってアメリカがその空白を埋めるべく、進出してきた。アメリカは和平に反対してジュネーヴ休戦協定に参加せず、むしろ1955年には南ベトナムに傀儡政権ベトナム共和国(南ベトナム)を樹立して介入し、ホー=チ=ミンのベトナム民主共和国(北ベトナム)と敵対させ、和平協定で約束された統一選挙の実施を拒んだ。

ダウンロド 
北爆開始

 このアメリカの介入は、1965年2月7日のアメリカ軍による北ベトナム空爆(北爆)から本格的なベトナム戦争へとエスカレートして行く。

 ホー=チ=ミンは「抗米救国」の先頭にたったが、アメリカ軍の撤退と戦争の勝利・南北の統一の成功を見ることなく、1969年9月2日、独立記念日に心臓発作で亡くなった。享年79歳。

 祖国と人民への信頼を最後まで持ち、無私の奉公・優れた実践で「ベトナム建国の父」と呼ばれている。
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ホー=チ=ミン廟

 ホー=チ=ミンは個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んではいなかったがその意向は無視された。政治局の決定により遺骸はレーニンに倣い永久保存(エンバーミング)され、南北統一後のハノイ市のバディン広場に建設されたホー=チ=ミン廟に安置された。

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グエン=チ=ミンカイ

  ホー=チ=ミンはスターリンや毛沢東、金日成のような神格化を嫌い、過去の私生活をいっさい公表していない。しかし、かえってそのことが彼を謎に包まれた“神様”のような存在にしてしまった。

 色々ささやかれている噂のなかで、とくにベトナム共産党が毛嫌いしているものに、女性関係がある。かつてホー=チ=ミンは自分が犯した二つの過ちを大衆に向かって率直に告白したことがある。

 一つは、煙草の喫い過ぎであり、もう一つは結婚しなかったことである。ベトナム共産党の公式解釈ではホー=チ=ミンは生涯独身で通し、すべての人生を革命と民衆解放に捧げた、とされている。だが、革命家のグエン=チ=ミンカイとは事実上の夫婦であったとか、中国で革命運動を行っていた時、中国共産党の仲介で中国人女性・曾雪明と密かに結婚して子どもを二人もうけた、という噂が根強く残っている。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/05/18 05:09 】

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