なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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スカルノは1901年にジャワ島南部のスラバヤに生まれた。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。オランダ語による西洋式教育を受けてバンドン工業大学を卒業した。
在学中からオランダに対する民族運動に参加していたスカルノは、1927年にオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成した。その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。
在学中からオランダに対する民族運動に参加していたスカルノは、1927年にオランダ留学から帰国した同志らとともにインドネシア国民党を結成した。その後スカルノはインドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。
1929年12月にオランダ植民地政府に逮捕されて禁固刑を受けたが、1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。この流刑地となったベンクルでは、後に第1夫人となるファトマワティと出会い、結婚している。
1942年、日本軍による占領の直前に脱走し、日本の軍政下ではインドネシア側の指導者として日本軍に協力した。日本の降伏で、1945年8月17日、ハッタとともに独立宣言を敢行し、共和国初代大統領に選ばれた。
しかし、オランダが再植民地化を図って軍事行動に出たため、軍事闘争の最高指揮をとり、1949年末、独立を確立した。
しかし、オランダが再植民地化を図って軍事行動に出たため、軍事闘争の最高指揮をとり、1949年末、独立を確立した。
1955年4月18日~24日、ジャワ島のバンドンで史上初のアジア=アフリカ会議が開催された。議長を務めたスカルノは、この会議を「世界人口の約半数の13億(当時)を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と述べ、第三世界のリーダーとしての存在を世界に示した。
会議には29ヵ国(そのうち23ヵ国がアジア)が参加し、日本もオブザーバーとして参加した。インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、スカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて結束を図ることを目指し、会議は共同声明として「平和十原則」を発表して閉会した。
会議には29ヵ国(そのうち23ヵ国がアジア)が参加し、日本もオブザーバーとして参加した。インドのネルー、中国の周恩来、ビルマのウー=ヌー、スカルノなどが中心となって議事を運営し、民族・宗教・社会制度などの相違を超えて結束を図ることを目指し、会議は共同声明として「平和十原則」を発表して閉会した。
スカルノは1961年には第1回非同盟諸国首脳会議に参加した。このように国際政治では華々しく活躍し、そのカリスマ的指導力が際だっていたが、実際の国内政治では国民に約束した「貧困からの解放」は進まず、多くの政党が乱立して不安定になっていた。
議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤に1963年から独裁権力を握り、憲法を改定して終身大統領に就任し、首相も兼ねることとなった。
彼が提唱した民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。またスカルノは、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシア連邦が成立し、国連に加盟したことに反発して、1965年には国連を脱退した。
議会制民主政治が危機を迎えると、スカルノは「指導される民主主義」を唱え、軍部と共産党の勢力を基盤に1963年から独裁権力を握り、憲法を改定して終身大統領に就任し、首相も兼ねることとなった。
彼が提唱した民族主義(国民党)、宗教(イスラーム教)、共産主義(共産党)の三者の協力体制をナサコム(NASAKOM)という。またスカルノは、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオのサラワクとサバを併合してマレーシア連邦が成立し、国連に加盟したことに反発して、1965年には国連を脱退した。
しかし、1965年に共産党系の軍人が起こした九・三〇事件のクーデタ失敗を機にナサコム体制が崩れ、実権を軍を背景としたスハルトに奪われ、失脚した。
1968年、 第2代大統領となったスハルトは、スカルノの社会改革路線と共産圏よりの外交を改め、「開発」路線と親米路線をとることとなる。
1968年、 第2代大統領となったスハルトは、スカルノの社会改革路線と共産圏よりの外交を改め、「開発」路線と親米路線をとることとなる。
スカルノは「国父」としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され自宅に事実上の軟禁状態におかれ、さらにデヴィ夫人たちと多くの家族が国外に政治亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。
インドネシア第5代大統領(任期2001~2004年)を務めたメガワティは、スカルノと第一夫人ファトマワティの間に生まれた長女である。
デヴィ夫人
なお、現在日本のテレビのバラエティ番組で活躍するデヴィ夫人は、スカルノの第3夫人だった。インドネシアはイスラーム教だから妻は4人まで許されている。
デヴィ夫人の日本名は根本 七保子。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働いていた19歳の時に、インドネシアへの開発援助に伴い、「東日貿易の秘書」という名目で、1959年スカルノのもとに送り込まれた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となった。
デヴィ夫人の日本名は根本 七保子。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働いていた19歳の時に、インドネシアへの開発援助に伴い、「東日貿易の秘書」という名目で、1959年スカルノのもとに送り込まれた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人となった。
スカルノとの間には、一人娘のカリナがいる。
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