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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドートルコ人の父・ムスタファ=ケマル

ダウンード 
ムスタファ=ケマル

 ムスタファ=ケマルは1881年に現在はギリシア領となっているサロニカ(テッサロニキ)に生まれた。ムスタファは「選ばれし者」の意味で両親の命名、ケマルは「完全な」の意味で、幼年兵学校の教官が与えたもの。ムスタファ=ケマルで名を表しており、当時のトルコ人に姓はない。1934年に彼自身が創姓法を制定することになる。

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青年トルコ革命でミドハト憲法の復活を祝うリトグラフ

 1905年、ケマルは陸軍士官学校・陸軍大学を卒業して軍隊に入ったが、ちょうどその年に日露戦争で日本が勝利した。それに刺激されたケマルは、1907年にオスマン帝国の改革運動である「統一と進歩委員会」(青年トルコ)に加入したが、その中心人物エンヴェル=パシャとは生涯友好的ではなかった。

 軍人として活躍を続け、トリポリでのイタリア=トルコ戦争、数度にわたるバルカン戦争に従軍した。

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ガリポリの戦い

 青年トルコ政権のもとでオスマン帝国が第一次世界大戦に参戦し、ドイツ・オーストリアの同盟国側の一員として戦うことになると、ケマルは前線に出て戦い、1915年4月のガリポリの戦いではイギリス軍とANZAC(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)の上陸を阻止し、名声を上げた。

 この時、ケマルは兵士に対し、「自分は諸君に対し攻撃は命じぬ。死を命じる!」といって兵士を鼓舞したと言う。

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メフメト6世

 その後、西アジア戦線でイギリスに支援されたアラブ軍との戦闘に専念した。しかし、大戦の形勢は次第に不利となり、1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブルはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍に占領され、エンヴェル=パシャなどは国外に逃亡し青年トルコ政権は崩壊した。

 一方、シリアのアレッポでは、ケマルの率いるオスマン帝国軍は連合軍に対する降伏を拒否して抵抗を続けた。

ダウロード 
サカリャ川の戦い

 講和に反対してイスタンブルを追放になっていたケマルは1919年にトルコに戻り、抵抗運動を組織した。まずアナトリアのムスリム農民を国民軍に組織し、ついでいくつかの準備会議を経て、1920年4月にアンカラにトルコ大国民議会を招集(アンカラ政府)し、トルコ革命が開始された。

 大国民議会のもとにアンカラ政府と国民軍が組織されたが、この段階ではまだイスタンブルにオスマン帝国のスルタン政府と帝国議会は存在しており、イスタンブル側はただちにアンカラ政権を否認、ケマルの行動を国家に対する反逆として死刑を宣告し、「カリフ軍」を組織して派遣し、トルコ人同士が内戦で戦うこととなった。

 一方、イギリスのロイド=ジョージ首相の支持を受けたギリシア軍が、1919年5月アナトリア西部のイズミル地方に侵入し、ギリシア=トルコ戦争が始まっていたが、ケマルは1921年8月、サカリャ川の戦いでギリシア軍を大破して、国民軍最高司令官としてガージーの称号を得た。
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凱旋したケマル

それに対してイスタンブルのオスマン帝国政府は、1920年8月に連合国との間で講和条約としてセーヴル条約を締結、それは帝国の領土を小アジア西部に限り、他の地域をイギリス、フランス、イタリアによって分割するという、トルコ人国家の消滅に近い屈辱的な条約だったので、ケマルの率いるアンカラ政府軍は、セーヴル条約破棄を掲げて、オスマン政府軍との戦いをさらに展開した。

 1922年11月、オスマン政府軍を圧倒し、実力によって国権の最高機関となったトルコ大国民議会は、スルタン制の廃止を決定、最後のスルタン・メフメト6世はマルタに亡命した。これによって36代、600年近く続いたオスマン帝国の滅亡は正式に決まった。ただし宗教的権威としてのカリフの存在は認められ、アブデュルメジト2世を新カリフとして選出した。

 権力を掌握したアンカラ政府は、セーヴル条約を破棄すべくイギリス、フランス、イタリアと交渉し、1923年7月に新たな講和条約としてローザンヌ条約を締結することに成功した。

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トルコ共和国の成立を宣言するケマル

 1923年10月29日、トルコ大国民議会はトルコ共和国の樹立を宣言し、ケマルを初代大統領に選出した。

 共和国政府は精力的に法整備、統治機構の改廃を進めた。その際、ケマルが最も心を砕いたことは、イスラーム国家としての性格をなくし「世俗化」を実現することであった。その決意のもとで次々と改革が実行される。

 「世俗化」の象徴がカリフ制廃止だった。さすがにカリフ制の廃止に対しては国内だけでなく、世界のイスラーム圏でカリフを擁護するヒラーファト運動が沸き起こったが、ケマルの決断は揺るがず、1924年3月3日、トルコ大国民議会は圧倒的多数でカリフ制度の廃止を決定した。

ダウンード 
アブデュルメジト2世

 最後のカリフ、アブデュルメジト2世は国外追放となった(オリエント急行でスイスに向かった)。最終的には1926年には最初のトルコ共和国憲法に含まれていたイスラーム教を国教とする条項が削除され、トルコ共和国はイスラーム圏で最初の世俗的な国家となった。

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ローマ字を教えるケマル

 ケマルが実施した近代化政策には太陽暦の採用(イスラーム暦の廃止)・一夫一婦制の採用・女性参政権の実施・トルコ帽やチャドルの廃止など多岐にわたる。

 また、トルコ語を国語として制定、文字はアラビア語を廃止してローマ字をもとに新たに制定し、みずから先頭にたってローマ字を国民に教えた。

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アタチュルク廟

  1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、この時にムスタファ=ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。

 1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿でアタチュルクは死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。彼は生前、医者に「肝硬変はラクのためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。

 ちなみに、ラクはトルコの蒸留酒のことで、アルコール濃度は50%とかなり強い酒だ。アタチュルクはイスラームの教えを守って禁酒していれば、肝硬変で死ぬことはなかった。世俗化が裏目に出たわけだ。

ウンロード 
アヤソフィア

 トルコ共和国政府は1935年2月1日、アヤソフィアを世俗的な博物館とすることを決定し、以来多くの外国人観光客を魅了してきた。

ダウンド 
エルドアン大統領

 ところが、イスラーム回帰を進めるエルドアン大統領は2019年3月、アヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言し、トルコ政府は2020年5月29日、アヤソフィアを会場にコンスタンティノープル征服567周年記念式典を開いた。ここでイスラム教の聖典『コーラン』を朗読し、ギリシャ共和国政府は「世界中のキリスト教徒への侮辱」と抗議した。

 ありがたいことに、「モスク化」後も外国人観光客も礼拝以外の時間帯は観覧できる。それも無料で。しかし、無料化によりトルコ政府は年間60億円の入場料収入を失うことになった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/05/25 05:06 】

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