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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドー世界を変えた銃声・サライェヴォ事件

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暗殺場面を描いた新聞挿絵 1914年7月12日付

 「違う、まっすぐ行け!」

 オープンカーの左側のステップに立っていたボスニア総督が、運転手を怒鳴った。運転手は右に曲がりかけていた車を慌てて止め、バックしようとした。

 その瞬間、曲がり角の人ごみの中から、鋭い金属音があたりの空気をつんざいて、銃声が1発、もう1発となった。車の中で、オーストリア皇太子フランツ=フェルデナント大公夫妻が、折り重なって崩れた。車は左に半回転すると、フルスピードで直進した。病院に着いたが、ほとんど同時に大公妃ゾフィーは絶命し、その15分後には大公も息をひきとった。午前11時半頃であった。

 1914年6月28日、オーストリア領ボスニア州の首都サライェヴォでの惨劇であった。

 この日は日曜日で、天気は快晴、サライェヴォの町は、オーストリア皇太子の初めての訪問ということで、駅から市庁舎に通じるアッペル=ケー通りの沿道は、朝から市民でうずまっていた。だが、この群衆に混じって6人の暗殺者が配置されていた。彼らはみなセルビア人であった。

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第一次世界大戦直前のバルカン半島

 セルビアは中世にはバルカン半島の大国だった。14世紀の末にオスマン帝国に滅ぼされ、1878年にようやく独立を回復した。セルビア国王や貴族たちの望みは、同じスラヴ人の土地であるボスニアとヘルツェゴヴィナを併合して、昔のような大セルビア王国を建設することであった。
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「黒い手」のシンボルマーク

 ところが、オーストリアが1908年、この二つの地方を併合し、セルビアの望みを絶った。これに憤慨したセルビア軍の青年将校たちは、「黒い手」(正式の名は「結合か死か」)という秘密結社をつくって、反オーストリア運動を起こした。6月28日の6人の暗殺者たちは、その一味であった。

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フランツ=フェルディナントとゾフィー

 皇太子フランツ=フェルデナントは、オーストリア皇帝の甥で50歳。この日は、ボスニア地方で行われた陸軍大演習を監督したあと、首都サライェヴォを視察するため、午前10時、特別列車でサライェヴォ駅に着いた。オーストリア人のボスニア総督や随員が皇太子夫妻に従ったが、オーストリア軍の警備はなぜか手薄だった。

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皇太子夫妻のコース


  皇太子夫妻は、市長が用意した幌つきオープンカーに乗って、ミリャチュカ川沿いのアッペル=ケー通りを市庁舎に向かった。車がキュミリア橋のたもとまで来た時、歩道から一人の青年が飛び出し、車めがけて爆弾を投げた。運転手がとっさにアクセルを強く踏んだので、爆弾は車の幌にあたって車道に落ち、大音響をあげて炸裂した。

 このため後続車が大破し、随員3人と歩道の市民10数名が大怪我をした。犯人はすぐ捕まり、6人の暗殺者の一人のカプリノビッチという19歳の植字工であることがわかった。

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市庁舎を出て車に戻ろうとする大公夫妻

 憤然とした大公は、市庁舎での歓迎会には出席したものの、市内の視察は中止し、負傷者の見舞いに行くと言って再びオープンカーに乗った。

 初めの予定のコースは、先ほどの通りを途中で右折し、フランツ=ヨーゼフ街(オーストリア皇帝の名)へ出るはずであった。それが、右折せずに直進すると変更されたことを、手違いで運転手に知らされていなかったのである。

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暗殺直後の現場写真

 こうして、運命の曲がり角で、ブローニング銃から放たれた2発の弾丸が、皇太子夫妻の生命を奪うことになった。

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ガブリロ=プリンツィープ

 犯人は、暗殺者の一味でやはり19歳のガブリロ=プリンツィープという学生であった。彼はその場で自殺を図ったが、取り押さえられて失敗した。

 プリンツィープは、ボスニアがハプスブルク家に隷属させられていることに憤慨して、仲間の6人の高校生と大公を撃とうと決心し、秘密結社「統一か死か」から粗末な武器を受け取っていた。彼の仲間が行進中の大公を狙撃しようとしたがいずれも失敗し、偶然彼の前で車が止まり、彼が実行者となった。

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コソヴォの戦い

  6月28日は旧暦では6月15日にあたるが、その日はセルビア人にとっては特別な意味のある日だった。1389年のコソヴォの戦いで、セルビアがオスマン帝国に敗れた日であったが、もともと、セルビア人の信仰する聖ヴィトウスの祭日で、昔から「何かが起こる日」であると信じられていた。

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フランツ=ヨーゼフ1世

 フランツ=フェルナント夫妻の暗殺の知らせを受けたオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世とその政府は、セルビア人の実行犯の背後には大セルビア主義の民族団体とそれを支援するセルビア政府がいるとして、ドイツ帝国のヴィルヘルム2世とその政府から白紙委任を取り付けた上で、最後通牒を発し、セルビアが拒否したことを受けて1914年7月28日、セルビアに宣戦布告した。ここからロシア、ドイツ、フランスの参戦へと連鎖反応が起こり、第一次世界大戦が始まった。

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サライェヴォ裁判

 1914年10月12日から23日にかけて裁判が行われ、10月28日に判決が言い渡された。プリンツィープは未成年であったため死刑を免れ、20年の懲役を宣告されて入獄した。彼は4年後の1918年春、服役していたオーストリアの刑務所で肺結核で病死してしまう。

 自分のはなった2発の銃声によって世界大戦にまで歴史が走ってしまったことを、彼がどう思っていたかは定かではない。

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プリンツィープの足跡と記念のプレート

 サライェヴォには暗殺の犯人プリンツィープがピストルを撃った現場にその足跡が刻まれ、彼を英雄として称える一文を記したプレートが飾られていた。しかし、1992年に始まるボスニア内戦の過程で、この足跡もプレートも取り除かれてしまった。

 プリンツィープを「犯人」と見るか「英雄」と見るかは、サライェヴォ事件をどのような視点から理解するのかに関わっていた。ボスニア内戦が激化する中で、ボスニア社会が民族・宗教的に分断され、プリンツィープをボスニア=ヘルツェゴヴィナ解放の「英雄」捉える共通の評価はなくなってしまったようである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/06/01 05:09 】

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