なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ラスプーチンは1869年1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村で生まれ、翌10日に洗礼を受け、グリゴリーと名付けられた。学校に通わなかったため読み書きが出来ず、素行不良で粗暴な若者へ育ったグレゴリー青年はロシア正教会古儀式派のスコブツィ教派の教義に傾倒、指導者としての頭角を表すようになった。
1887年に結婚したが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はヴェルコチュヤの修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル=ポリカロポフに強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた。
1903年に再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけキエフ=ペチェールシク大修道院を巡り、カザンでは主教や上流階級の人々の注目を集める存在となった。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた。
ニコライ2世
1903年、ペテルブルクに現れたラスプーチンは、「1年以内に皇帝に後継者が生まれる」と予言。実際に翌年8月に、皇位継承者であるアレクセイが誕生した。
また、重病や難病で苦しむ人々を次々と治療し、「奇跡の治癒者」と呼ばれるようになった。こうして名声を高めたラスプーチンは、1905年11月1日、ついに皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラに謁見した。皇帝はいたく感激し、日記に「神の如き人物に会った」と記している。
それから2年後、誕生を予言した皇太子アレクセイが生命の危機に陥る。アレクセイは母親アレクサンドラを通じてイギリスのヴィクトリア女王の家系から遺伝的にもたらされた血友病の患者であった。そのため、少しの怪我でも大量に出血してしまい、たびたび生命の危険に晒された。
1907年4月、ラスプーチンはエカテリーナ宮殿に呼び出され、アレクセイの治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善してしまう。血友病を治したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた。
やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。
ラスプーチンと信者の女性達
1912年になると、「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れるようになった。国会議長のロジャンコはラスプーチンに帝都から出て行くように要求した他、首相ココツェフはラスプーチンを亡命させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている。
この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた。
1914年6月29日午後3時、ポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンは自宅でキオーニャ=グセヴァに襲われた。キオーニャは顔を黒いハンカチで覆い、短剣でラスプーチンを殺そうとした。ラスプーチンは腹部を刺され自宅から飛び出し、地面に落ちていた棒で反撃した。ラスプーチンは近隣から医師が来るまで自宅に留まり、翌30日午前0時に医師が到着し治療を受けた。
4日後、ラスプーチンは妻子に伴われて船でチュメニの病院に移送された。知らせを聞いたニコライ2世は直ちにチュメニに医師団を派遣し手術を受けさせた。7週間後の8月17日、回復したラスプーチンは退院し、9月中旬にペトログラード(第一次大戦勃発によりペテルブルクから改称)に到着した。(つづく)
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