なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ラスプーチンはドイツ帝国との戦争に反対し、「戦争を避けるためならば、どんな努力も惜しみません」とニコライ2世に懇願し、暗殺未遂事件で受けた怪我の治療のため滞在していたチュメニから何度も電報を打ち、「戦争が始まれば、ロマノフ家とロシアの君主制は崩壊してしまう」と国の将来に対する不安を吐露した。
しかし、ラスプーチンの請願は受け入れられず、ニコライ2世は1914年7月31日にロシア軍総動員令を布告しドイツ軍との戦端を開いた。
1914年8月、早くもロシア軍はタンネンベルクで敗北し、それ以後も部分的勝利はあったとはいえ、東部戦線を維持するだけに終始した。軍備は不十分で、兵士には武器・軍靴なども不足し、逃亡兵も続出、しかも政府、軍部は無能で、「戦時中にロシアの当局者がやったことはただ一つ、農村から人間を引き出すことだけ」と評されるありさまであった。
開戦時に530万だった兵員数は、1916年末には1400万を超え、16年末までに戦死者53万人、負傷者230万人、捕虜および行方不明者251万人に達していた。東部戦線に農民を大量動員したことにより農業生産は減退、食糧不足と価格高騰も招いた。こうした中、ドイツ出身のアレクサンドラ皇后を非難する人々も現れ始めた。
1915年8月23日、ニコライ2世は士気を維持するため親征を行いペトログラードを離れ、内政はアレクサンドラと彼女が相談役としたラスプーチンが担当することになった。これに対し閣僚たちから反対意見が出たが、首相のゴレムイキンは罷免を示唆して反対意見を封殺した。これに対し、対抗処置としてドゥーマ(国会)が9月3日に無期限の休会を宣言し、ゴレムイキンは1916年2月2日に辞任した。
再開されたドゥーマでは、下院議員のマコラコフが「現在のロシアは狂った運転手がブレーキも踏まずに狭い山道を走っているようなものだ」と発言するなど、アレクサンドラとラスプーチンへの批判を強めた。
ニコライ2世の親征後、アレクサンドラは政務に追われラスプーチンと会う機会が減ったが、手紙や電話、週に一度行われる謁見を通してラスプーチンに意見を求めた。これにより、アレクサンドラに対するラスプーチンの影響力は拡大し、大臣・高官の任免もこの男に左右されるにいたった。
皇后アレクサンドラとラスプーチンとの関係、さらには皇后とドイツとの内通の疑いが公然とドゥーマで取り上げられるにいたった。立憲民主党の指導者ミリュコーフが、「愚行なのか、裏切りなのか:という名高い演説を行い、皇后と政府を批判したのは1916年11月のことであった。
1916年12月29日、ラスプーチン暗殺計画を練っていた皇族ドミトリー=パヴロヴィチとユスーポフ公、それに極右議員プリシケヴィチは、ラスプーチンをユスーポフのモイカ宮殿の新築パーティに招いた。
ユスーポフ公
ユスーポフの回顧録によると、ユスーポフは青酸カリを盛ったプチフールと紅茶をラスプーチンに用意したという。しかし、ラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も態度に変化を示さず、ユスーポフを驚愕させた。ユスーポフはラスプーチンにデザートワインを飲ませ暫く談議していた。数時間後、ラスプーチンが泥酔したことを確認したユスーポフは応接室に向かい、ドミトリー大公からリボルバーを受け取った。ユスーポフは部屋に戻ると、背後からラスプーチンに向かって2発発砲した。銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫通し、彼は床に倒れ込んだ。
しかし、死んだと思われたラスプーチンは起き上がり、「目を見開き、自らの危機を知った」という。驚愕したユスーポフは階段を駆け上がり中庭に逃れ、騒ぎを聞いて駆け付けたプリシケヴィチがラスプーチンに向かい拳銃を4発発砲した。4発の内3発は外れたが、1発は右腎静脈から背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上に倒れた。しかし、ラスプーチンは起き上がったため、神経質になったユスーポフは靴でラスプーチンの右目を殴り、その後、ラスプーチンは額を拳銃で撃たれた。
簀巻きにされたラスプーチンの遺体
ドミトリー大公は絨毯で簀巻きにした遺体を車に積み込みクレストフスキー島に向かい、橋の上から凍りついたネヴァ川に氷を割って開けた穴に遺体を捨てた。
ドミトリー大公はニコライ2世のいとこであり、ユスーポフ公はニコライ2世の妹クセニアの女婿にあたる。ラスプーチンがロマノフ朝を蝕む害毒として、いかに皇族やニコライ2世の近親者らから憎まれていたかがわかる。
ドミトリー大公はニコライ2世のいとこであり、ユスーポフ公はニコライ2世の妹クセニアの女婿にあたる。ラスプーチンがロマノフ朝を蝕む害毒として、いかに皇族やニコライ2世の近親者らから憎まれていたかがわかる。
ラスプーチンの遺体
4日後の早朝、橋から140メートル西に離れた岸辺からラスプーチンの遺体とコートが発見された。遺体の手足はロープで縛られていたが、手首のロープは川に捨てられた際に解け、両腕は死後硬直で伸び切っていた。同日夕方にラスプーチンの検死が行われた。肺に水が入っていたため死因は溺死であり、川に投げ込まれた時点で生きていたと言われる。青酸カリでも死なず、銃弾を数発撃ち込まれても死ななかった。まさに怪物である。 しかし、これは言い伝えに過ぎず、実際にはラスプーチンの肺から水は検出されず、胃からもアルコールが検出されたのみで、毒物は検出されなかった。検死によると、遺体の傷の大半は死後に傷付けられたものであり、右目は殴られ陥没し、橋から投げ捨てられた際に欄干にぶつかり右の頬骨が砕けており、死因は頭部を狙撃されたためと結論付けられている。
また、暗殺者たちに切り取られた「ラスプーチンの男根」とされる、13インチ(約33センチ)の巨大な男性器のアルコール漬標本が、サンクトペテルブルクの博物館に保存されているが、画像をみたい方はネットで検索してみてください。
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