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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーあっけなく転げ落ちた帝冠・ロシア二月革命

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ニコライ2世

 1914年夏、ロシアが東部戦線に兵士を総動員するに当たり、時の内相が皇帝ニコライ2世に言ったというー「内乱の危険は、国をあげて武器をとること以外に押さえる道はありません。戦争こそ国内の敵より逃れる唯一の道であります。」

 こうして始められた戦争ではあるが、早くもロシアはタンネンベルクで大敗し、それ以後も部分的勝利はあったとはいえ、東部戦線をかろうじて維持するにとどまった。軍備は不十分で、兵士には武器、軍靴なども不足し、逃亡兵も続出、しかも政府、軍部は無能で、「戦時中にロシアの当局者がやったことはただ一つ、農村から人間を引き出すことだけ」と評されるありさま。

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ラスプーチン

 一方、皇帝、特に皇后アレクサンドラは怪僧ラスプーチンに操られ、大臣、高官の任免もこの人物に左右されるにいたった。1916年12月末、彼はついに反対派のため暗殺されたが、こうした支配者層の仲間割れも帝政のゆきづまりを示すものと言えよう。

 さてこの暗殺は、皇帝の側近から悪人を取り除くという名目によるとともに、ラスプーチン派の単独講和の動きに主戦派が反対したことも原因であった。事実、これ以上の戦争継続は帝政そのものの危機を意味するようになっていた。「
屠殺」されるに等しい兵士たちの士気は衰えるばかり、国民全体の厭戦気分はしだいに強まっていった。

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ペトログラードでのデモ行進

 1916年から17年にかけての冬は記録的な豪雪に見舞われた。食糧の輸送が滞り、都市部では深刻な食糧難が生じた。厳冬の1月、首都ペトログラードではパンを求める長い行列ができ、略奪行為も頻発した。北海のほとり、ネヴァ川沿いに造られた美しい町ペトログラードは「北方のヴェネツィア」と称されていた。最大の工業都市でもあり、ロシアの民主化や臨時政府を求める労働者の運動も活発になっていく。
 2月14日の国会開会の当日には、国会支持を表明する労働者のストライキが行われた。第1次か命のように、デモ行進が行われたわけではなかったが、7万人の労働者が参加している。ペトログラードでは、いつ政治デモが行われても不思議ではない状況が生まれていた。

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ペトログラードでのデモ行進

 2月23日(グレゴリウス暦3月8日)は国際婦人デーであった。この日、パンも薪も不足していた繊維工場の女性労働者が、パンを求めてストライキに入った。これに男性労働者も加わると、ついに市の中心にあるネフスキー大通りをめざしてデモ行進が始まった。

 労働者の不満が一気に噴出し、翌日になると、ストライキは全市に拡大した。食糧不足の抗議に発したストライキは戦争と専制政治に反対する政治デモに 転化していった。この結果、皇帝による専制政治はわずか5日間で、いとも簡単に倒されていく。

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革命に参加した兵士たち

 2月26日、都市機能が麻痺した首都で、デモ隊は鎮圧にあたろうとする軍隊に挑発的な行動をとった。これに対して、軍隊が発砲したため、170人も死者が出た。

 夜になると、デモ隊への銃撃に抗議して、軍隊の一部が反乱を起こしたが、この時点ではすぐ鎮圧された。皇帝は国会を休会し、戒厳令を発した。翌27日には下士官に率いられた連隊の反乱が続き、鎮圧に向かった部隊は立ち往生する始末であった。
こうした事態の背景には、「軍服を着た農民」の存在があった。このような農民の兵士らがデモ隊鎮圧の命令を拒否したのは、長期化した戦争に嫌気がさしていたからであった。

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ペトログラード=ソヴィエト

 反乱を起こした兵士と労働者は革命の組織化にあたった。メンシェヴィキを中心とする労働者はみずからの権力機関であるペトログラード=ソヴィエト(ソヴィエトとはロシア語で助言や会議を意味する)を結成し、労働者と兵士の結集を呼びかけた。レーニンらのボリシェヴィキは、この動きに立ち後れた。これに対して、国会では立憲民主党と社会革命党が主導権を握っていた。

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リヴォフ公

 両党はペトログラード=ソヴィエト執行委員会と連絡をとるなかで、帝政を見限る決断を下す。ロシアの将来を憲法制定会議に委ねることとし、それまでの暫定的統治機関として、3月2日に立憲民主党のリヴォフ公を首班とする臨時政府を成立させた。

 国会の臨時執行委員会は、打開の道が皇帝退位のほかなしと考え、軍の司令部も軍と王朝の保身をはかりこれに同意した。

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皇太子アレクセイ

 一方、首都を離れていたニコライ2世は事態を楽観しており、その深刻さに気づいた時にはすでに遅かった。

 3月15日の夕方、国会の代表者2名、すなわちグチュコーフおよびシューリギンがプスコーフに到着し、皇帝に謁見した。彼らは皇帝にペトログラードの現情勢を報告し、皇帝が退位し皇太子アレクセイに譲位されることを主張した。

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ミハイル大公

 かくして皇帝は国会に同意して退位したが、その退位詔書にみるごとく、ニコライ2世は国会の希望とは違った形で帝位を譲った。なわちす皇帝は「愛する息子と別れたくないが故に」、皇太子を狂乱のロシアの元首に即けることを忍びないが故に、弟のミハイル大公に帝位を譲ったのである。 

 帝位を譲られたミハイル大公は。それが「わが人民の
偉大な意志」である場合にのみ権力を受諾すると宣言し、「人民の意志」の反映さるべき憲法議会の招集まで、帝冠は宙に迷った。このミハイルの宣言は退位詔書に署名された翌日、すなわち3月16日に発表された。

 18代300年続いたロマノフ朝の帝冠はいともあっけなく転げ落ちたのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/06/11 05:19 】

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