なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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レーニンは1870年4月22日、ヴォルガ川に臨むシンビルスク(現在のウリヤノフスク)で物理学者の子として生まれた。本名はウラジーミル=イリイチ=ウリヤノフ、レーンは「レナ川の人」という意味の筆名で、1901年12月から使い始めた。兄のアレクサンドルは皇帝アレクサンドル3世の暗殺を目論む秘密結社に参加し、21歳で逮捕・処刑された。
兄の影響で早くから社会主義運動に入った。ペテルブルクでマルクス主義グループに加わり、ナロードニキや合法的社会主義を批判して独自の革命理論を作っていった。1895年、ペテルブルクで労働者階級解放闘争同盟を組織、一時捕らえられてシベリアに流刑となった。
クルプスカヤ
1898年、レーニンは流刑地でクルプスカヤと結婚した。夜間学校で教鞭をとっていたクルプスカヤは、1894年にマルクス主義思想の研究サークルでレーニンと出会い交際を続けていた。
クルプスカヤはレーニンの死から15年後の1939年に食中毒で亡くなっている。70歳の誕生日会に送られたケーキを食べた後に気分が悪くなり、病院に運ばれたが、そこで意識を取り戻さないまま死亡したという。ケーキは誕生会に参加した全員が食べ、彼女以外に「食中毒」になった人はいなかったことからスターリンの関与を疑う説も根強い。
レーニンは1900年1月に刑期を終了し、7月には国外に亡命した。1902年にはレーニンの筆名で『何をなすべきか?』を出版し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張した。
1903年7月、ロンドンでロシア社会民主労働党の第2回党大会(実質的結成大会)が開かれたが、大会ではレーニンの支持者とマルトフの支持者が激しく対立した。その結果、ロシア社会民主労働党はレーニン支持派の「ボリシェヴィキ(多数派)」とマルトフ支持派の「メンシェヴィキ(少数派)」という2つの派閥に分裂した。
1917年、ロシア二月革命(三月革命)が起こり、ロマノフ朝のツァーリ専制政府が倒れ、ブルジョワ立憲主義者を中心に臨時政府が成立、一方でペトログラードなど各地で労働者・兵士のソヴィエトが成立し、ロシアは二重権力の状態となった。
二月革命が勃発した時、レーニンは亡命地のスイスのチューリヒにいた。革命勃発の知らせを受け、ただちにロシアにもどることとしたが、大戦中でありロシア人がドイツ国内を通行することはできない。レーニンたちから国内通過のの申し入れを受けたドイツ政府は、この名うての革命家たちを帰国させることで、ロシアの革命が進み、戦争から離脱すれば西部戦線に全力を傾けることが出来るのと考えた。しかし、途中で革命の宣伝をされては困るので、一切ドイツ人と接触しない「封印列車」で、レーニンたちを送り返したわけである。
レーニンらの一行は封印列車でチューリヒからドイツのザスニッツに移動した後、フェリーに乗り換えスウェーデンを経由してヘルシンキへと向かい、そこからペトログラード行きの最後の列車に乗り込んだ。
1917年4月16日夕刻、ペトログラード駅前の広場は見渡す限りの人の海、赤旗の波、熱狂的などよめきと歓声、いま到着した列車から、ずんりとしたぐ農民風の男が降りてきた。まぎれもないレーニンだ!
レーニンは帰国するとすぐボリシェヴィキに、ブルジョワ的な臨時政府と絶縁して、労働者・農民の社会主義共和国を建設することを訴える。これは「四月テーゼ」と呼ばれているが、スイスからの旅の途中で書き上げたものであった。
それはまだ自覚を持っていない人々に、「雷鳴」のように響いた。そして、ここに、水を得た魚のようなレーニンの活躍が始まったー「いっさいの権力をソヴィエトへ!」。しかも臨時政府は依然として戦争を続けているので、二月革命を起こした民衆の要求、「平和とパン」はいっこうに実現しない。
7月、レーニンの指導するボリシェヴィキは臨時政府の戦争継続に反対して大規模なデモを組織したが、、臨時政府は社会革命党(エスエル)右派のケレンスキーが首相となり、ボリシェヴィキを弾圧に乗り出した。ボリシェヴィキの求心力低下を狙った臨時政府が「レーニンはドイツのスパイである」との情報をペトログラード駐留部隊の前で公表したため、レーニンおよびボリシェヴィキの支持は急落し、武装デモに参加した部隊は臨時政府側の部隊に次々と武装解除され、武装デモは鎮圧された。
レーニンは難を避けてフィンランドに亡命することになる。(つづく)
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レーニンは難を避けてフィンランドに亡命することになる。(つづく)
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