なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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臨時政府は7月中旬、ペトログラード軍管区司令官であったコルニーロフを最高司令官に任命し、下旬には社会革命党のケレンスキーを首班とする第2次連立内閣を発足させた。最高司令官に就任したコルニーロフは保守派の支持をもとにして、積極的に戦争を継続し、ソヴィエトを押さえ込み、臨時政府に権力を一元化しようとした。
コルニーロフ
8月末、コルニーロフは軍隊に首都進撃を命じ、ケレンスキーに退任を要求した。「軍事クーデタ」であった。立憲民主党の大臣たちはコルニーロフを支持した。ケレンスキーが依存できたのはソヴィエト、その中心となっていたボリシェヴィキだけであった。結局、ソヴィエトの兵士の活躍により、コルニーロフ軍は命令を遂行できずに進撃を中止した。反乱は失敗に終わった。
コルニーロフの反乱はソヴィエトによる権力一元化への重大な転機となった。反乱の失敗は軍隊の権威を弱めただけでなく、この反乱を支持した立憲民主党の権威をも大きく低下させた。逆に、自由主義者の入らないソヴィエト中心の臨時政府樹立を求める気運が強まった。こうした状況において、ソヴィエト内の主導権を握ったボリシェヴィキは、みずからが主導する政権の確立を主張した。ソヴィエト指導部は9月1日、二月革命以後、不明確であった政治体制をはっきりさせるため、ロシアが共和国であることを宣言した。
これに対して、権威の失われた臨時政府は常設の代議機関として「予備議会」を設置し、議会制度にもとづいて、なんとか勢力を回復しようと考えていた。ケレンスキーは9月下旬、自由主義者とともに第3次連立政権を発足させた。しかし、長期化する戦争により経済状況はまますす悪化し、首都では犯罪が増加するなど社会的な混乱が拡大していった。戦争を停止しない以上、臨時政府が実権を確保することは望めなかったのである。
第3次連立政権の成立と同じく、9月下旬に開催されたペトログラード=ソヴィエト総会で、ボリシェヴィキは完全に多数を占め、トロツキーが委員長になった。すでに9月中旬、れーニンは亡命先のフィンランドから、ボリシェヴィキが武装蜂起を起こし、臨時政府を打倒して権力を一元化することを提案していた。
10月に入ると、ボリシェヴィキ中央委員会は「予備議会」から離脱することを決定。さらにトロツキーの指令で、ペトログラード=ソヴィエトがソヴィエト防衛を掲げて軍事革命委員会を設置した。この軍事革命委員会こそが武装蜂起の司令塔であり、すぐさま、首都の守備隊に対する指揮権を確保していった。
10月に入ると、ボリシェヴィキ中央委員会は「予備議会」から離脱することを決定。さらにトロツキーの指令で、ペトログラード=ソヴィエトがソヴィエト防衛を掲げて軍事革命委員会を設置した。この軍事革命委員会こそが武装蜂起の司令塔であり、すぐさま、首都の守備隊に対する指揮権を確保していった。
10月24日(グレゴリウス暦11月6日早朝、ボリシェヴィキの軍事革命委員会は兵士・労働者からなる「赤衛隊」に指令して武装蜂起を開始し、首都を制圧した。この夜、レーニンが女装して首都に戻り、武装蜂起を直接指導することになる。当時、ペトログラードにいたアメリカ人ジャーナリストのジョン=リードが、「世界をゆるがした10日間」と表現した十月革命はこうして始まった。
翌25日、ネヴァ川沿いにあるスモーリヌイ女学校の建物に拠点を置いた軍事革命委員会は、ケレンスキー首相が執務に使っていた冬宮と「予備議会」が置かれていたマリア宮殿周辺を除く、すべての拠点を制圧した。午前10時、軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、国家権力を掌握したとの声明を出した。午後1時、ついにマリア宮殿が包囲され、「予備議会」は解散させられた。
オーロラ号
なおも臨時政府閣僚は援軍を期待して降伏を拒絶したため、同日午後9時、ネヴァ川にあった巡洋艦オーロラ号からの砲撃を合図に革命軍は冬宮を総攻撃し、26日午前2時、これより先、女装して逃亡したケレンスキーを除く全閣僚を逮捕した。それにしても、ロシア人は女装が好きだね。
この日は寒く冷たい人であったが、市民たちはいつものように仕事に出かけ、店は開いており、市電は動き、映画や劇場にも人が集まっていた。オーロラ号からの砲撃が始まった時、近くのナロードヌイ=ドム劇場ではヴェルディのオペラ『ドン=カルロス』が上演されていたが、オーロラ号からの砲撃が3度、4度と繰り返されるうちに、舞台は主役を演じるシャリアーピンを除いて皆、いなくなってしまった。約1分の後、使者が駆けつけて大砲は別の方向を砲撃しているから安心するように、とのことで再び観客も席に戻って演技が続けられたという。
一方、スモーリヌイで第2回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開催された。大会に姿を現したレーニンは、万雷の拍手が鳴りやんだ後、「われわれは今や社会主義秩序の建設に入るであろう」と告げた。しかし、彼自身にも、嘘のように思われたのであろうか、トロツキーに漏らしたそうである。「迫害と地下生活からこんなに急に権力を取るなんて……眩暈がする」。
革命に反対するメンシェヴィキと社会革命党右派は大会から退場した。ボリシェヴィキが圧倒的多数を占めたこの大会は26日朝まで続けられ、ソヴィエト権力の樹立を宣言したあと、この日の夜に再開された。ここで採択されたのが、人々の強い願望の表現でもある「平和に関する布告」と地主による土地所有を廃止する「土地に関する布告」である。
革命に反対するメンシェヴィキと社会革命党右派は大会から退場した。ボリシェヴィキが圧倒的多数を占めたこの大会は26日朝まで続けられ、ソヴィエト権力の樹立を宣言したあと、この日の夜に再開された。ここで採択されたのが、人々の強い願望の表現でもある「平和に関する布告」と地主による土地所有を廃止する「土地に関する布告」である。
スターリン
このあと、政府の構成に関して、社会革命党左派は入閣を拒否したため、ボリシェヴィキの単独政権が作られる。憲法制定会議が招集されるまでの暫定政府である人民委員会議が成立した。大臣職は人民委員と称された。議長にはレーニンが、外務人民委員にはトロツキーが、民族人民委員にはスターリンが就任した。ボリシェヴィキ以外の勢力はすべての社会主義党派からなる政府を主張したが、ボリシェヴィキは数でこれを押し切った。
このように、十月革命には、二月革命時に街頭にあふれた数十万にも及ぶ労働者や兵士の熱狂した姿は見られない。十月革命は、反議会主義・反自由主義の立場をとるボリシェヴィキが設置した軍事革命委員会による武装蜂起であり、事実上のクーデタだったのである。
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