なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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1918年8月、モスクワでレーニンは1月に続き2度目の暗殺未遂に遭い、工場での演説を終えた帰途に銃で撃たれ重傷を負った。
レーニンはこの暗殺未遂の後遺症と戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなり、再び休養生活に入り、事実上の引退を余儀なくされた。
レーニンの政権内における影響力は縮小し、1922年に後継書記長に選出されたスターリンの横暴が始まる。
レーニンはこの暗殺未遂の後遺症と戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなり、再び休養生活に入り、事実上の引退を余儀なくされた。
レーニンの政権内における影響力は縮小し、1922年に後継書記長に選出されたスターリンの横暴が始まる。
妻のクルプスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に保養地のゴールキで53歳の生涯を閉じた。
葬儀は1月27日にスターリンが中心となって挙行された。スターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができず、スターリンがレーニンの後継者であることをモスクワ市民に印象づけた。
神格化されていたロシア共産党指導者の遺体処理について、スターリンを委員長とする葬儀委員会で激論が戦われたすえに、永久保存して「赤の広場」にレーニン廟を建設することが決められた。
ロシア共産党と遺体の永久保存とはあまりに似つかわしくないが、ロシアでは宗教的伝統や聖遺物崇拝が継続していたことに加えて、19世紀後半の宗教哲学者フョードロフは死者復活の思想を唱えていた。無神論者であるはずのボリシェヴィキのなかには、フョードロフの影響を強く受けて、聖なるものへの信仰は必要だとし、マルクス主義を基盤として社会主義的宗教を作ろうとする「建神主義」の立場をとる人たちがいた。葬儀委員のなかにも、こうした思想の信奉者が存在した。もちろん、スターリンのように個人崇拝を政治的に利用しようと 考える者もいたのである。
ともかく、レーニンの遺体は解剖学者の手で保存の処理が施され、霊廟建設委員会が設置された。建築家シチューセフが遺体を安置するための廟の設計にあたり、3日間で霊廟を完成させた。1月27日のレーニン葬の翌日、クレムリンの壁の前に、木造立方体の霊廟が忽然と姿をあらわした。その後、霊廟は権力の基盤を確かなものとしたスターリンのもとで改築され、1930年に現在あるような石造りのピラミッド型に変えられてしまう。
永遠に眠るレーニン その遺体保存手段については長らく不明のままで、「剥製である」という説や「蝋人形ではないか」という説も語られていた。
ソビエト連邦の崩壊後、1930年代から1950年代にレーニンの遺体管理に携わった経験のある科学者イリヤ=ズバルスキーが自身の著作で公表したところによれば、実際には臓器等を摘出の上、ホルムアルデヒド溶液を主成分とする「香油液」なる防腐剤を浸透させたもので、1年半に1回の割合で遺体を香油液漬けにするケアで現在まで遺体を保存しているという。
なおロシア連邦政府はエリツィンの頃より、遺体を埋葬しようと何度も計画しているが、その都度国内の猛反対に遭って撤回されている。ロシア国民にとっては良くも悪くも近代ロシアの父と見る節があり、また根強い共産党及びソビエト政権への支持層からの反対が大きく、クレムリンの壁と霊廟に「強いロシア」のイメージを重ねる者も多い。
その中でレーニンは国防人民委員トロツキーについて「最も有能であるが、うぬぼれが強すぎる」とし、ボリシェヴィキ書記長スターリンについて「あまりにも粗暴」としていた。結局スターリンは反省してその態度を改めることを条件に書記長留任を認められたが、トロツキーはすでにこの頃から中央委員会の方針を誤りとして独自の「永久革命論」へと傾いていた。
党内論争に敗れたトロツキーは1926年には政治局、27年には共産党を除名され、1929年に国外追放となった。
トルコなどをへて1937年メキシコに亡命、「第4インターナショナル」を結成してコミンテルンに対抗したが、1940年8月21日、スターリンの放った刺客ラモン=メルカデルによって暗殺された。
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トルコなどをへて1937年メキシコに亡命、「第4インターナショナル」を結成してコミンテルンに対抗したが、1940年8月21日、スターリンの放った刺客ラモン=メルカデルによって暗殺された。
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