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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーベッドで受けたノーベル賞・ウィルソン

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ウィルソン

  ウッドロウ=ウィルソンは1856年12月28日に、長老派の牧師であったジョゼフ=ウィルソンの第3子としてヴァージニア州で生まれた。1861年に始まった南北戦争では、父親は連合軍(南部)を支持しており、短期間ではあるが南軍に従軍した。ウィルソンはリー将軍の横に立って彼の顔を見上げたことをいつまでも忘れなかった、したがって、ウィルソンは南北戦争のあと南部出身で大統領になった最初の人、つまりアメリカ史上最初の「敗戦国出身の大統領」だったということである。

 ウィルソンにとって南北戦争の影響は大きく、9歳まで教育を受けられなかったことで学習障害を抱えることになり、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった。しかし、それを克服するため、速記を独学で覚えた。彼は決断と自己規律を通して学業を修め、1879年にプリンストン大学を卒業。その後、ヴァージニア大学で法律学を勉強し、弁護士事務所を開業する傍らでジョンズ=ホプキンズ大学の大学院で政治学の博士号を取得している。つまり、彼は歴代大統領のなかで唯一自らの努力で博士号を取得した人物でもある。

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エレン=ルイーズ夫人

 プリンストン大学総長から政界に転身、1911年から2年間ニュージャージー州知事を務めた。「新しい自由(New Freedom)」を掲げて民主党から1912年の大統領選挙に出馬し、セオドア=ローズヴェルト(革新党)を破って当選し第28代アメリカ大統領となった。この時代は、アメリカ帝国主義の真っ只中にあり、その行き過ぎを是正することが課題であったが、アメリカと第一次世界大戦という困難な課題に直面、戦後にいやおうなく大国となったアメリカを主導する役割を担った。

 ウィルソンは1885年にエレン=ルイーズと結婚し、三女をもうけたが、エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。エレンがなくなってから、再婚するまでの間は、長女のマーガレットが事実上のファーストレディとなった。 

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ルシタニア号の爆沈

 ウィルソンはヨーロッパで大戦が始まると、これに巻き込まれないように中立政策をとった。しかし、経済的にアメリカ合衆国は交戦国、特に英仏など連合国側からの軍需品の注文によって好景気を迎えていた。そして、イギリスが制海権を握っているため、中立国とはいうものの、アメリカはますます連合国に接近していった。

 一方、ドイツは潜水艦をもってイギリスに対抗し、1915年5月7日午後、イギリス客船ルシタニア号をアイルランド沖で無警告で撃沈した。この船には約2000人の乗務員・船客が乗っていたが、死者1198名を出し、中には婦女子も入れて128名のアメリか人が含まれていた。米独関係は一時緊張し、来るべきアメリカ参戦の遠因となったのである。

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地中海でイギリスの貨物船に砲撃するドイツの潜水艦U-35

  1916年ウィルソンは中立を掲げて再選されたが、アメリカの参戦は近づきつつあった。平和主義者ウィルソンもモルガン財閥など大資本の利益を無視できず、すでに1915年から英仏に借款を与えていたが、それが多額になるにつれて大資本は次第に英仏の勝利を望むように、いや、必要とするようになってきた。

 しかも、ドイツはルシタニア号事件に対する国際的非難の高まりで一旦は停止していた制限務潜水艦作戦を1917年2月から再開した。アメリカは連合国側への有利な軍需品輸送を止めるか、ドイツと戦うかの選択を迫られるにいたった。ドイツとしては、この作戦によるアメリカ参戦を計算の上で、アメリカの援助が効果をあげる前に、イギリスを屈服させる積もりであった。

 この作戦はイギリスを経済封鎖で苦しめたが、降伏させることが出来ないうちに、果たしてアメリカに参戦の口実を与えることになった。ロシアで二月革命によって専制政府が倒されたことも、アメリカに反民主的な国に味方するというためらいから解放したのである。
 1917年4月2日、ウィルソンは議会で開戦の教書を読み、「世界の究極の平和と諸国民の自由のために」戦うと述べ、4月6日、ついにアメリカはドイツに対して宣戦布告した。ここに19世紀以来のアメリカの孤立主義が捨てられた。そして、アメリカはただ兵力においてのみならず、軍需品や財政上の援助によって連合国の勝利に決定的な役割を果たした。この点、ドイツはアメリカの力を過小評価していたわけである。

 1918年1月8日、ウィルソンはまた議会への教書で、戦後の世界再建の綱領である「14カ条」を発表する。その中で有名なのは民族自決の原則や、政治的独立と領土保全のための国際組織の提唱であり、後者は後に国際連盟に具体化したものである。

 なお、前年11月成立したソヴィエト政権は「無併合・無賠償の即時講和」を交戦諸国に提唱したが、「14カ条」はこれに対応する一方、英仏帝国主義に対するアメリカとしての批判を示すものであった。


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ヴェルサイユ条約の調印

 ウィルソンは、「14カ条」が十分には実現しなかったものの、国際連盟が認められたことに満足して、ヴェルサイユ条約に調印した。1919年7月に帰国したウィルソンは、英雄が凱旋したような歓迎を受けた。全国の7割に当たる33州の知事が支持を表明するなど、条約を支持する意見が次々と寄せられた。

 ところが、条約批准の権限を持っている上院議員の見解は単純ではなかった。講和条約と一体となっている国際連盟規約に対して、無条件賛成派から比較的簡単な留保条件をつけるもの、大きな規約修正を求める立場あるいは絶対反対派まであったのである。

 問題は、主として規約第10条に関してだった。それは、侵略者に対し、加盟国が経済的および若干の軍事的制裁を行うべきか協議するという項目で、ウィルソンによれば、国際連盟の核心となるものだった。反対や留保を主張する議員は、アメリカが国際的な義務を負うこと、主権を制限されることになると主張したのである。

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2度目の夫人イーディスと

 1919年の夏から始まった上院の審議は長引いた。ウィルソンは直接に国民に訴えようと、9月から全国遊説の旅に出たが、10月2日にコロラド州で脳梗塞を発症した。

 一命は取りとめたものの、左半身不随、左側視野欠損、言語障害といった重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。
 (「平和条約」という女性が、「合衆国上院」の剣に刺し殺されている。それを天に恥ずべき行為だとし非難している女性は、「人道」のシンボルとなっている。)

 11月に入って、ロッジ外交委員長が提案した14の留保条件が採決されることになったまず留保付きの条約が問われ、39対55で否決された。ついで、留保なしの条約が審議さえたが、これも38対53で否決された。やや皮肉なことに、その直後、ウィルソンは国際連盟の提唱者としてノーベル平和賞を与えられた。もちろんオスロには行けず、ベッドでこれを受け取った。 

 このままでは、アメリカはヴェルサイユ条約を批准しないことになってしまう。そこで翌1920年3月、やや異例だが、再び留保付きの条約の批准案が採決されることになった。しかし、49対35で、やはり、必要な3分の2に達せず、批准はなされなかった。留保なしの案は、正反対の差で否決された。こうして、国際連盟には、原提案国が加盟しないという奇妙なことになったのである。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/06/25 05:14 】

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