なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ニコライ2世は1868年5月6日、アレクサンドル皇太子(後のアレクサンドル3世)の長男としてサンクトペテルブルクで生まれた。
1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足が千切れ顔は判別不能なほどに破損しているなど、当時の感覚では衝撃的な末路であった。その痛ましい姿を見た子のアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、ニコライ皇子も決意を同じくしたという。
1881年に祖父の皇帝アレクサンドル2世が爆弾テロで暗殺された。その遺体は足が千切れ顔は判別不能なほどに破損しているなど、当時の感覚では衝撃的な末路であった。その痛ましい姿を見た子のアレクサンドル皇太子は改革を志向した父帝とは反対に専制政治の強化を決意し、ニコライ皇子も決意を同じくしたという。
ニコライは両親の勧めで1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行することになった。まずウィーンからギリシャへ向かい、その後は従兄弟であるギリシアのゲオルギオス王子が同行し、エジプト、インド、セイロン、シンガポール、フランス領インドシナ、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、香港、上海と広東を歴訪した後、最後に日本を訪問した。
ニコライに斬りかかる津田三蔵
ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。1891年5月11日、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵がいきなりサーベルを抜いて斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入った。これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになった。津田三蔵の犯行の動機は不明である。
電報で事件の報告を受けた明治天皇はただちにニコライ皇太子のお見舞いのため京都へ行幸し、さらに神戸を出航するニコライを見送った。5月19日に日本を発ったニコライは、5月31日にウラジヴォストークで行われたシベリア鉄道の起工式に出席した後、サンクトペテルブルクに戻っている。
明治天皇の謝罪に対し、「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答したニコライであったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになる。ロシア首相ウィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争(とその敗北)を招いたと分析している。
1894年初秋に父帝アレクサンドル3世が病に倒れ、11月1日に崩御した。26歳でロシア皇帝に即位したニコライ2世とアレクサンドラとの結婚式は父帝の大葬からわずか一週間後に挙行された。アレクサンドラは「私たちの結婚式は、まるで死者のためのミサの連続のように思えました。違ったのは私が黒い喪服から白いドレスに着替えたことだけです」という感想を書いている。
ホディンカの惨劇の犠牲者
1896年5月18日、モスクワのホディンカ原で、ニコライ2世の即位の式典が開催された。皇帝が贈り物のお菓子を群衆に配布しようとしたところ、集まっていた群衆が殺到し、将棋倒しになって1389名の死者が出るという惨事となった。
ロシアではその後、大惨事のことを「ホディンカ」というようになったという。その後、この原は軍の飛行場となったが、1935年にはソ連の旅客機が空中衝突して48人が死ぬという事故が起こっている。
東アジアに侵出した日本との対立から、1904~05年の日露戦争に踏み切った。ロシアの一般国民のこの戦争のとらえ方は、はじめは極東で起こった小国日本とのトラブル程度であり、ロマノフ家が勝手に起こした戦争という醒めた見方が多かった。
しかし、最終的には敗戦に至らなかったものの、旅順・大連の放棄、日本海海戦でのバルチック艦隊の敗北は大きな衝撃を与えた。特に、旅順陥落の直後にペテルブルクで労働者の請願行動を軍隊が弾圧した「血の日曜日事件」が起こり、そこでの民衆虐殺はツァーリズムに対する幻想を完全に払拭させた。
また、黒海海軍の水兵は戦艦ポチョムキンの反乱を起こして革命ののろしを上げた。こうして戦争継続は困難となったため9月に講和に応じ、翌10月にはウィッテが中心となって国会開設などを約束する十月宣言を出した。
これが第1次ロシア革命であるが、12月には労働者のゼネストを押さえ込んだツァーリ政府は、その内部危機をさらなる帝国主義政策・膨張政策によって解消しようとしてバルカン方面への進出を強め、第一次世界大戦へと突入していく。(つづく)
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