なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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しかし、すでにその頃アメリカの農業生産は過剰となり、いろいろな救済案も成功せず、農産物価格の下落はやまなかった。それにもかかわらず1929年3月の大統領就任演説でフーヴァーは、「私はわが国の前途に不安を覚えない。それは希望に輝いている」と述べていた。
取り付け騒ぎでアメリカ連合銀行に集まった群衆
1929年10月21日月曜日、世界資本主義の中枢、ニューヨークのウォール街の株式取引所で株価の大暴落が始まった。一時的なことであろうという投資家たちの楽観を尻目に、23日事態はさらに悪化し、大金融家たちの買い支えも効果がなかった。
そして、24日の「暗黒の木曜日」がやってきた。取引所では人びとが押し合い、わめきあい、ひっきりなしにかかっている電話は、ことごとく「売り」である。この日一日で約1300万株が売られ、(前日のおよそ倍)、中にはいくら値を下げても、買い手がつかない株も少なくなかった。この日に自殺した投資家が11人ほどというニュースも流れ、高層ホテルで部屋を求めると、「お休みになるのか、窓を利用なさるのか」と聞かれる有様であった。しかも29日は「最悪の日」となり、1640万株が売りに出された。
アメリカでは、1929年9月が株価上昇のピークだったが、11月になると株価指数は3分の2になり、さらに2年半も下落し続け、株価が底に達した1932年6月には、ピーク時の6分の1弱になっていしまった。このような株価下落は平均の数字であり、個々の株ではさらに激しい下落を示すものも珍しくなかった。世界最大の鉄鋼会社だったUSスチールの株は、以前の12分の1の22ドルに、最大の自動車会社ジェネラル・モーターズの株は9分の1の8ドルに下がった。こうして、株の値上がりで一財産築いた人びとが、一夜にして財産を失い、家財道具を売り払うようになった。
イギリスのある失業者

フランクリン=ローズヴェルト
フランクリン=ローズヴェルトは1882年1月30日にニューヨークで生まれた。第26代大統領セオドア=ローズヴェルトは遠い従兄にあたる。フランクリンは若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第一次世界大戦では民主党のウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、1928年にニューヨーク州知事に選出された。
世界恐慌の最中の1932年11月に行われた大統領選挙で、ローズヴェルトは民主党から立候補し、全米48州のうち42州で共和党のフーヴァーに勝った。選挙人数では約9割を獲得し、史上最高だった。一般投票では、それまで最高の2281万票(57%強)を獲得し、フーヴァーを700万票も上回った。「フーヴァー以外なら誰でもよい」と言われていたが、1600万人ちかい人々は、以前からの支持政党へ投票したわけである。
1933年3月4日、第32代大統領に就任、1920年代に続いた共和党政権に代わり、民主党の政権を実現した。
選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、3月4日の就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。
さらに、新政権成立から3週間もたたない3月22日、アルコール分3.2%以下のビール製造を許可し、酒税を徴収する法律が定められ、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。禁酒主義者からみれば不当な法律だったが、相当数の国民を元気づけた。恐慌を一時忘れるには、アルコールは有効だったし、その製造・販売などさまざまな分野で仕事が増えることが確実だったからである。
また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求め、それによって国民の強い支持を受けることとなった。直接語りかけるようなローズヴェルトの、やや甲高いが親しみを感じさせる話し方は、不況で意気消沈しがちな国民を元気づけるうえで非常に有効だった。
こうして株式恐慌に始まり、たくさんの銀行が破産し、1929年から4年ほどの間にアメリカの工業生産は半分以下に減り、失業者は1283万人、全労働者の4人に1人が失業という惨状になった。
恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及した。全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、1932年末には全世界の失業者は5000万人を超えたと推定されている。特に恐慌が深刻になったのはドイツであった。1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となった。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていたので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。
アメリカ発の株式暴落が世界恐慌に拡大した理由は、アメリカ合衆国が第一次世界大戦後、世界最大の債権国となっており、世界経済がアメリカ経済に依存する体質になってしまっていたためであり、アメリカの経済が破綻したことが必然的に世界経済の破綻へとつながってしまった。
恐慌は、まず西半球のアメリカ勢力圏からアジアの植民地・従属国に広がり、さらにヨーロッパの工業国へと波及した。全資本主義国の全経済部門に及び、1929年から32年までに世界の工業生産は半減し、1932年末には全世界の失業者は5000万人を超えたと推定されている。特に恐慌が深刻になったのはドイツであった。1931年5月、オーストリアの銀行クレディット=アンシュタルトが破産し、それを機に中欧諸国の金融恐慌が発生し、ドイツにあった金は国外流出を続け、財政は巨額の赤字となった。特に多額の賠償金と負債を抱えていたドイツはアメリカの支援で経済が成り立っていたので、ドイツ経済も破綻、そのドイツから賠償金を取り立てていたイギリス・フランスの経済も破綻した。

フランクリン=ローズヴェルト
アメリカは1930年6月、スムート=ホーレー法を成立させ、農産物だけではなく工業製品でも関税引き上げを実施した。各国も自国産業を守るために、保護貿易主義に転換したため、世界的な貿易不振が起き、かえって恐慌を長期化させることとなった。またドイツの窮状を救うため、フーヴァー大統領は1931年6月にフーヴァー=モラトリアム(支払猶予令)、を発表し、戦債・賠償金支払いを1年停止することにしたが、タイミングが遅すぎて効果はなかった。
車イス姿のローズヴェルト
フランクリン=ローズヴェルトは1882年1月30日にニューヨークで生まれた。第26代大統領セオドア=ローズヴェルトは遠い従兄にあたる。フランクリンは若いころからセオドアを目標として政治家を志し、ハーヴァード大学とコロンビア大学で法律を学び、第一次世界大戦では民主党のウィルソン大統領の下で海軍次官補を務めた。1921年頃小児麻痺にかかって両足の自由を失い、松葉杖の生活になったが、政界に復帰し、1928年にニューヨーク州知事に選出された。
世界恐慌の最中の1932年11月に行われた大統領選挙で、ローズヴェルトは民主党から立候補し、全米48州のうち42州で共和党のフーヴァーに勝った。選挙人数では約9割を獲得し、史上最高だった。一般投票では、それまで最高の2281万票(57%強)を獲得し、フーヴァーを700万票も上回った。「フーヴァー以外なら誰でもよい」と言われていたが、1600万人ちかい人々は、以前からの支持政党へ投票したわけである。
1933年3月4日、第32代大統領に就任、1920年代に続いた共和党政権に代わり、民主党の政権を実現した。
選挙中は「ニューディール」の具体的中身はまだ無かったが、当選後に政治や経済の専門家をブレーンとして採用して、総合的な恐慌対策を策定し、3月4日の就任以後、矢継ぎ早に政策を実施に移していった。まず、折からの金融不安を「バンク・ホリデー」と称して銀行を4日間閉鎖し、その間に緊急銀行救済法を成立させて国民にラジオを通して預金を呼びかけ、金融の信頼回復に努めた。
さらに、新政権成立から3週間もたたない3月22日、アルコール分3.2%以下のビール製造を許可し、酒税を徴収する法律が定められ、国民に新しい時代に入ったことを印象づけた。禁酒主義者からみれば不当な法律だったが、相当数の国民を元気づけた。恐慌を一時忘れるには、アルコールは有効だったし、その製造・販売などさまざまな分野で仕事が増えることが確実だったからである。
また彼は、当時マスコミとして広く普及していたラジオを活用し、たびたび「炉辺談話」として国民に直接話しかけて政策の理解を求め、それによって国民の強い支持を受けることとなった。直接語りかけるようなローズヴェルトの、やや甲高いが親しみを感じさせる話し方は、不況で意気消沈しがちな国民を元気づけるうえで非常に有効だった。
ローズヴェルトは1933年3月9日から6月16日までのいわゆる「百日議会」で、15にも及ぶ恐慌対策立法を成立させた。ニューディールの主要な内容は、農業調整法(AAA)・全国産業復興法(NIRA)・テネシー川流域開発公社(TVA)・ワグナー法・社会保障法・金本位制停止など、多岐にわたるが、そのねらいは、従来の自由放任主義の原則を改め、政府の積極的な経済介入によって、公共事業などを行って雇用を創設し、労働者保護や社会保障の充実によって弱者を救済して全体的な国内の購買力を回復(内需回復)して、恐慌を克服しようとするものであった。
ニューディールについては、おおむね好意的な評価が為されているが、詳細に見ると問題も多かった。また、政府による経済介入については、当時から社会主義的な手法であるという批判、非難が強かったことも見逃してはならない。
1933年6月12日からロンドン世界通貨経済会議が開催されたが、ここでのローズヴェルトにも問題がある。国際連盟加盟国ではないが参加を要請されたアメリカは、今や世界経済の大国であり世界恐慌の発端となった責任もあることから、積極的に関与することが期待された。まず世界恐慌でドイツの賠償が事実上不可能となったため、ヨーロッパ諸国のアメリカに対する債務返済も不可能なので、それを帳消しにすることが期待されたが、ローズヴェルトはその問題を議題にすることを拒否し、話し合われなかった。また、すでに金本位から離脱していたアメリカの将来的金本位制への復帰を要請されたが、ローズヴェルトはこれも拒否した。その結果、ロンドン世界通貨経済会議は決裂に追い込まれた。
アメリカは世界経済の牽引車であることの自覚を持たず内向けなニューディールに進んでいったのである。(つづく)
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