なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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スターリンは、1922年にロシア共産党の書記長となった。1922年12月30日には、新国家ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立、ロシア共産党もソ連共産党となった。すでにレーニンの片腕としての地位を確立していたが、1924年のレーニンの死後、共産党の主導権をめぐってトロツキーとはげしく対立するようになる。
トロツキー
両者の対立は主導権争いという面が強いが、次第に革命理念でも違いを際立たせていった。スターリンは一国社会主義論を党の公式見解にすることに成功し、世界革命論をとるトロツキーを次第に追い詰めていった。トロツキー排除の段階ではジノヴィエフ、ブハーリンとともに三者の協力体制をとっていたが、トロツキー排除後は、この二人も次々と排除し、その他の古参のボリシェヴィキをも退けて、1929年までには党権力を握り、スターリン政権をつくりあげた。
五カ年計画の早期達成を扇動するソ連ポスター
スターリンは、政権を樹立した1929年からの第1次五カ年計画、つづく第2次五カ年計画の10年間を通して、社会主義国家の建設を目指して工業化とコルホーズ・ソフホーズによる農業集団化を推し進めた。この間、特に1930年代は急速な工業化と農村の集団化に批判的な政治的対立者や、独裁体制に批判的な人々を厳しく処罰し、粛清が行われ、スターリンに対する個人崇拝が強まった。
スターリンによる血の粛清で犠牲となった死者は800万~1000万人ともいわれるが、推定数字以外はない。1934年初めの第17回ソ連共産党大会は「勝利者の大会」とよばれ、社会主義建設の勝利と党内反対派の屈服が宣言された。しかし、同年12月のキーロフ暗殺事件を契機に、スターリンは政治テロに対して死刑判決の即時執行などの非常措置の導入を決定。またこの事件を扇動したとして、旧反対派の指導者ジノヴィエフ、カーメネフらが逮捕され、禁固刑に処された。これに続き、1935年のうちに古参ボリシェビキ協会や政治徒刑囚・流刑囚協会など、古くからの革命家の組織が解散させられた。
その後、旧反対派の指導者たちが、外国人記者を前にした一連の「見せ物裁判」で、罪を「自白」し、「人民の敵」として処刑された。ジノヴィエフとカーメネフは死刑の判決を下された。ブハーリンも共犯者として名をあげられた。こうした「見世物裁判」はこの時点では権力基盤を持たず、とうていスターリンに対抗できそうもない旧反対派の人物を対象としていたが、粛清は旧反対派のみならず、スターリンに忠実であった党幹部からコルホーズ農民、また外国人共産主義者にも及んでいる。しかも、彼らの大半は裁判にもかけられず、突然に逮捕され、銃殺されたり収容所に送られた。
この粛清は、一方での、社会主義社会の基礎の完成をうたった1936年の「スターリン憲法」の制定とスターリンの神格化の進行、他方での外敵に対する警戒と極端なナショナリズムのなかで行われた。この大粛清の虚構性については、亡命中のトロツキーが告発を続けたが、ソ連では、スターリンの死後、第20回党大会(1956)におけるフルシチョフの「秘密報告」によって初めて正式に認められ、生存者の収容所からの復帰と多くの人々の死後の名誉回復がなされた。ジノヴィエフ、ブハーリンらの名誉回復は行われなかったが、1988年ペレストロイカに伴い、名誉回復された。
この粛清は、一方での、社会主義社会の基礎の完成をうたった1936年の「スターリン憲法」の制定とスターリンの神格化の進行、他方での外敵に対する警戒と極端なナショナリズムのなかで行われた。この大粛清の虚構性については、亡命中のトロツキーが告発を続けたが、ソ連では、スターリンの死後、第20回党大会(1956)におけるフルシチョフの「秘密報告」によって初めて正式に認められ、生存者の収容所からの復帰と多くの人々の死後の名誉回復がなされた。ジノヴィエフ、ブハーリンらの名誉回復は行われなかったが、1988年ペレストロイカに伴い、名誉回復された。
第二次世界大戦ではソ連軍総司令官・国防相をを兼任、大元帥に昇進し、テヘラン会談・ヤルタ会談・ポツダム会談にソ連代表として出席し、連合国の首脳としてナチス=ドイツの打倒などを協議した。1945年8月、対日宣戦を敢行して対日戦勝国となった。
戦後は東欧に多数の同盟国を従えて広大な勢力圏を築き、中国社会主義革命の成功で中ソ友好同盟相互援助条約を結ぶなど、東アジアにも大きな発言権をもち、東西冷戦の東側指導者であった。
スターリンの健康状態は、第二次世界大戦の終わり頃から悪化していった。慢性的な喫煙による動脈硬化により1945年5月の戦勝パレードの時期に軽い脳卒中が起こり、1945年10月には重度の心臓発作に見舞われていた。
1953年2月28日、スターリンはベリヤ、マレンコフ、ブルガーニン、フルシチョフとの夜間の宴会を楽しんだ。 3月1日午前4時頃、客たちは解散し、スターリンは自室に戻った。暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。
翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、「呼び出されるまで、邪魔をしてはならない」という厳しい指示が出されており、警備責任者は眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。3月1日午後11時頃、注意深く彼の部屋に入ると、パジャマ姿のスターリンが床に横たわっていた。 意識はなく、息も荒く、失禁しており、呼びかけても反応がなかった。呼ばれたベリヤは、スターリンを見るなり、意識不明は酒が原因だと言って去っていった。
その後、遺体は詳細不明の場に運ばれて解剖を受け、その後、公開安置のために防腐処理が施された。3月9日、スターリンの遺体は赤の広場に運ばれた。フルシチョフ、マレンコフ、モロトフ、ベリヤが演説を行い、その後、要人たちによってレーニン廟に運ばれたスターリンの遺体は、レーニンの遺体の横に安置された。
1970年までのスターリンの墓
1961年、政府が「非スターリン化」を進める中、スターリンの遺体はレーニン廟からクレムリン近くの質素な墓地に密かに移された。この墓は今も、熱烈な共産主義者らを魅了している。
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