fc2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

世界史のミラクルワールドーアラブの狂犬・カダフィ大佐

 ダウンロード (1)
若き日のカダフィ(1970年)

 1942年6月7日、カダフィはリビアの砂漠地帯に住むベドウィン(アラブ化したベルベル人のカッザーファ部族)の子として、スルトで生まれた。ムスリムの学校で初等教育を受ける。第一次中東戦争の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるナセルのエジプト革命に魅せられ、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志すようになった。

 1961年にベンガジの陸軍士官学校に進み、在学中から仲間たちと王政打倒を計画し、自由将校団を結成し革命運動を指導した。1965年に卒業するとイギリス留学に派遣されて軍事を学び、帰国後は通信隊に配属された。
 
ダウンロード
イドリース1世

 1969年9月1日、わずか27歳のカダフィは11名の青年将校たちと共に首都トリポリでクーデターを起こし、政権を掌握した。病気療養のためにトルコに滞在中であった国王イドリース1世は廃位されて王政は崩壊した。

 カダフィは権力掌握後、リビアの伝統的な社会に人民主権に基づく直接民主政である「ジャマヒリア」(アラビア語で民衆の意味、人民民主主義と訳される)を樹立し、国名も「大社会主義リビア=アラブ=ジャマヒリア」と名付けた。この体制では憲法や国会は無く、国家元首も存在しないので、カダフィも要職には就かず、革命の指導者としての「カダフィ大佐」で通した。

 カダフィが「大佐」と呼ばれた理由については諸説があるが、いずれの説でも、カダフィが敬愛するエジプトのナセル大統領が「陸軍大佐」であったからそれに倣った、という点は一致している。

ダウンロード
リビア最大のシャララ油田

 カダフィ大佐の権力の追い風となったのは石油資源だった。1959年に発見されたリビアの油田はカダフィ体制のもと国家資源とされて急速に増産され、それにともなって工業化・都市化も急速に進んだ。カダフィ大佐は潤沢な石油収入を国民に分配することで絶対的な権力を維持することができたが、そのパーソナル・リーダーシップは「反西欧」の姿勢を強め、国内の自由な発言や外国文化との接触の自由を奪うことで成り立っていた。

ダウンロード
カダフィ

 カデフィは遊牧民の生活にこだわり、訪問先の外国でもテントを張って宿泊するのが通例で、ベルギー、ロシア(クレムリンの庭)、フランス(ホテルの庭)、イタリア(ローマの公園)、2009年9月23日に初めて出席した国連総会では、ニューヨーク郊外のニュージャージー州に遊牧民族の伝統に則りテントを張り、そこを宿にしている。

ダウンロード (2)
国連総会で演説するカダフィ

 国連総会の一般演説の席上、国連安保理を「テロ理事会」と批判。国連安保理常任理事国にのみ与えられている拒否権を、国連憲章の前文で謳われている加盟国の平等に反するものと批判し、演壇から国連憲章を投げ捨ててみせ大国による体制を批判した。

 また、「ターリバーンが作りたかったのは宗教国家だったのだ。だったらバチカンのように作らせてやればいい。バチカンがわれわれ(ムスリム)にとって危険な存在だろうか」と発言。さらに「オバマがずっと執権していればいい。オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「ケネディ元大統領が暗殺されたのはイスラエルに査察団を送り込んだため。調査した方がいい」「豚インフルエンザ(2009年新型インフルエンザ)はワクチンを売るために人工的につくられたもの、ワクチンは無料で提供しなければならない」などと発言した。

 カダフィの演説は規定の時間である15分を上回る、1時間36分の長時間にわたった。この演説に対してオバマ大統領、ヒラリー=クリントン国務長官などは、はじめから退席。イラン大統領のアフマディーネジャードも途中で退席。
矢継ぎ早に言葉が飛び出す長時間の演説に、国連のアラビア語の同時通訳士が疲れきり、途中で交代する場面も見られた。
ダウンロード
リビアの反政府デモ

 隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、2011年2月、カダフィの退陣を求める大規模な反政府デモが発生。国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カダフィ派の蜂起を招き、2011年8月24日までにカダフィは自身の居住区から撤退。反政府勢力により首都全土が制圧され、40年以上続いた独裁政権は事実上崩壊した。

ダウンロード (3)
カダフィが拘束された下水排水口

8月に事実上政権が崩壊した後も抗戦を続けたカダフィだったが、9月21日には評議会軍が南部サブハを制圧、更に10月17日にバニワリドを制圧、2011年10月20日には旧政権派の最後の拠点であったスルトを制圧した。カダフィは陥落したスルトから複数の護衛車両と共に脱出を試みたが、NATO軍による航空攻撃を受け、破壊された車両から近郊の下水排水口に逃げ込んだ所を反カダフィ派部隊に拘束された。

 国民評議会はカダフィをベンガジなどの主要都市に移送する予定であったが、移送される最中に民兵により射殺された。殺害直後の現場を撮影した映像が流出し、そこではカダフィの血塗れの死体を取り囲んで歓声を上げる民兵の集団が映されている。また更に死体を半裸にして地面に投げ出す、殴る蹴るなどの暴行を加えるなどの非倫理的行為が行われた。独裁者であったとはいえ、極めて無惨な最後であった。

 ランキング挑戦中  Brog Rankingのバナーをポチッと押してね!
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2021/12/07 05:17 】

イスラーム史  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< 世界史のミラクルワールドー恐怖の独裁者・サダム=フセイン① | ホーム | 世界史のミラクルワールドーブロガーがアラブ世界を変えた・ジャスミン革命 >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |