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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーワルシャワで跪いた西ドイツ首相・ブラント

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ブラント

 ブラントの本名はカルル=ヘルベルト=フラーム。1913年12月18日、リューベックの貧しい家庭に私生児として生まれた。教会も私生児には冷たく、近所のルター派教会は私生児であることを理由に洗礼を授けることを拒んだため、母マルタは市内の離れた場所にある同じルター派の教会に幼子を連れて行きブラントはここで洗礼を受けた。

 奨学金で高校に進み、在学中にドイツ社会民主労働党(SPD)に入党した。1933年、ヒトラー政権の成立でヴィリー=ブラントと名を変えてノルウェーに亡命、オスロ大学に学び、同国戸籍を取得した。1945年にドイツに帰国し、ドイツ国籍も回復して、SPDの再建に協力、国会議員・西ベルリン市会議長をへて,1957年同市長に選ばれ、政治的名声を確立した。

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壁の前のブランデンブルク門。左側が東側で右側が西側である。

 東西に分かれたベルリンは、戦後東から西への流出者が増加し、1960年には約20万人が西へ逃れ、1961年7月の1ヵ月間だけで3万人が東ドイツを離れていた。危機感を募ら東ドイツは1961年8月12日深夜から13日にかけて、突然東西ベルリンの境界線近くに壁を建設し、東西ベルリン間の市民の往来は不可能となった。

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1961年の連邦議会選挙時に街角に林立した選挙ポスター
CDUのアデナウアーと
SPDのブラント

 この時、西ベルリン市長ブラントSPD首相候補者でもあり、9月17日に総選挙が行われるのでその選挙遊説中でハノーファーにいたブラントは急遽西ベルリンに戻り、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。同じく選挙遊説していたアデナウアー首相はすぐに西ベルリンに行かず、それどころかブラントの出生に絡む問題を取り上げて個人攻撃をして西ドイツ国民から顰蹙をかっていた。

 
その結果、SPDはほぼ5%の票数増と13名の議席増で36.2%・190議席の得票で躍進した。しかし結局CDUもキリスト教社会同盟(CSU)と合わせて45.3%・242議席の得票で自由民主党(FDP)との連立に成功し、ブラントの政権奪取はならなかった。

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連邦議会で演説するブラント首相(1971年)

 1969年の総選挙ではCDUは第1党だったが過半数はとれず、第2位のSPDと第3位のFDPの連立となり、首相にブラント、副首相兼外相にFDPのシェールが就任したので、ブラント=シェール内閣ともいう。西ドイツでは戦後で初めてSPDの首相となった。首相就任以来、西ベルリン市長時代からの腹心エゴン=バールに立案させ、積極的なソ連=東欧圏との接触を図る東方外交を展開した。

 それは西ドイツをドイツ唯一の国家であるとして東ドイツを認めないという従来の基本姿勢を変更し、共産党国家が東隣にあるという現実を認め、そこから変革の糸口をつかもうとする「接近による変化」という発想であった。彼は積極的にソ連、ポーランド、東ドイツを訪問し、それぞれと条約を締結、国交正常化を図った。特に西ドイツ=ポーランド国交正常化条約を締結し、ポツダム協定以来確定していなかったドイツ・ポーランドの国境をオーデル・ナイセ線であることを認め、ドイツに領土拡張の野心がないことを周辺諸国に表明して欧州の安定に寄与した。ソ連との間ではソ連=西ドイツ武力不行使条約、東ドイツとの間では東西ドイツ基本条約を締結した。

 東ドイツとの基本条約締結は、それまて相手を国家として存在しない、従って交渉もしない、という態度を改め、話し合いを始めることによって現状に風穴を開け、解決に道を探ろうという、ブラント首相の「接近による変化」の大きな成果であり、当時は誰も実現不可能であろうと考えていた、東西ドイツ統一を導く出すこととなる。

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記念碑の前で跪くブラント

 ブラントの東方政策は東側とのビジネスとも揶揄するむきもあったが、そのような雑音を押しのけて、彼の「ドイツの過去の犯罪をはっきり認める」倫理的高潔さは世界に感動を与えた。

 1970年12月ワルシャワを訪問した折り、かつてのユダヤ人ゲットーでの蜂起の記念碑に花輪を献げたブラントは、雨上がりで濡れているにもかかわらず、コンクリートの地面に突如として跪いて黙祷を献げた。予定外の行動である。かつて自分もその政権のゆえにドイツを追われた人間が、ポーランドで最も残虐をきわめたナチスの行為のゆえに深く頭を垂れた。この態度はなぜ東側と対話をしなければならないかについて、静かだが雄弁な説得力を持っていた。

 これらの積極的な東方外交の展開は東西冷戦の変質をもたらし、緊張緩和(デタント)を実現させたと評価され、1971年度のノーベル平和賞を受賞した。ところが1974年に秘書の一人に東独のスパイ容疑が持ち上がり、首相を辞任することとなった。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2022/01/21 05:16 】

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