なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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ティトー
ティトーは1892年5月7日、オーストリア=ハンガリー帝国構成国のクロアティアで農民の子として生まれた。父親はクロアティア人、母親はスロヴェニア人であった。本名はヨシフ=ブロズといい、ティトーという名前は1934年頃から使い始めた偽名で、「お前があれをしろ」とう横柄な口調からついたあだ名である。
1907年、のどかな田舎から一転して錠前屋の見習として働き出すと、労働運動に関心をもつようになり、1910年、冶金工の労働組合に加入し、クロアチアの社会民主党にも加わった。
1913年の秋から、徴兵により兵役に就き、第一次世界大戦中はロシアと戦ったが、榴弾砲により重傷を負い、ロシアの捕虜となった。病院で数ヶ月療養したのち、1916年の秋、ウラル山脈にある労働収容所に送られた。1917年4月、ティトーは戦争捕虜たちのデモを組織したとして逮捕された。後に脱走して、1917年の7月16日から17日にかけて起きたサンクトペテルブルクでの反政府デモ(七月蜂起)に参加している。警察から逃れるため、フィンランドまで逃げたが、結局捕まった。その後、逃亡に成功し、1917年11月、シベリアのオムスクで赤軍に参加し、1918年春にはロシア共産党に入党した。

ティトーとパルチザン
ティトーは1920年に帰国してユーゴスラヴィア共産党に参加。1928年に逮捕され、5年間投獄された。1934年以降コミンテルンで働き、1936年発生したスペイン内戦では、国際旅団の「ディミトロフ」大隊の指揮官の一人として従軍した。1937年末にユーゴ共産党の書記長に任命されたティトーは、知識人が多くを占める当時の共産党指導部にあって、数少ないたたき上げの労働者の一人であった。
第二次世界大戦中の1941年4月にユーゴスラヴィアはドイツ軍により占領された。ティトーは41年6月から始まるパルチザン戦争の最高司令官として、ボスニアやモンテネグロの山岳地を転々としながら困難な戦いを続けた。1943年5月から8月にかけてドイツの第5次攻勢の際、山中を移動中の最高司令部が爆撃をくらい、イギリスからの連絡将校の一人が死亡、ティトーも大けがを負った。
この間、ティトーの活動は連合国によって直接的に支援されており、1944年6月には、ティトーのパルチザンを支援するために、バルカン半島で活動するイギリス空軍部隊が編成されている。しかし、ティトーがスターリンに接近しようとすることに対して、司令部にいるイギリス軍やアメリカ軍の将校とたびたび険悪になった。
戦争が終結すると、これらの軍隊は撤収し、パルチザンたちはユーゴスラヴィア全域の支配権を確立した。1946年1月31日、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた。ユーゴスラヴィア連邦の初代首相にはティトーが選ばれた。
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、それでも1つの国家」と言われる複合国家であった。それぞれを確認すると次のようになる。
7つの国境:イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアの7ヵ国と国境を接している。
6つの共和国:北から、スロヴェニア、クロアティア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国から成る連邦国家である。
5つの民族:スロヴェニア、クロアティア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアが主たる民族。これ以外にムスリム人(イスラーム教徒)、ドイツ人、ロマ、など少数民族が存在。
4つの言語:スロヴェニア語、クロアティア語、セルビア語、マケドニア語がある。
3つの宗教:キリスト教のカトリックとギリシア正教、それとイスラーム教。
2つの文字:スロヴェニア語とクロアティア語はラテン文字を使用。他のセルビア人などはロシア語と同じキリル文字を使用。
ティトーとスターリン
共産党指導者としてソ連とは協力関係にあり、始めはソ連社会主義の模倣に過ぎなかったが、スターリンの個人崇拝には批判的でソ連共産党と対立し、1948年にはコミンフォルム除名という試練を受けることとなった。コミンフォルム除名後の試行錯誤の中から、ソ連を反面教師としてさまざまな実験を続けることになる。それはパルチザン戦争時に勝るとも劣らないほどの困難であった。
彼が目指したのは、「独自の社会主義」を形作る自主管理であり、非同盟であり、1970年代以降の連邦制であった。クロアチア人とスロヴェニア人を両親とする個人的な生い立ちもあり、ティトーは民族問題にも取り組み、自国の共産党をまとめ、ユーゴスラヴィア国家の統一も維持することに成功した。
ティトーは国際社会では非同盟主義を掲げ、エジプトのナセル、インドのネルー、中国の周恩来らとともに第三世界のリーダーとして活躍し、1961年には第1回非同盟諸国首脳会議を首都ベオグラードで主催した。アジア・アフリカ諸国を中心に25ヵ国が参加した。こうしてティトーはネルー、周恩来、ナセルらとともに非同盟主義のリーダーとして、世界的に重要な立場に立った。
また、1953年にスターリンが死去するとソ連との関係を改善し、1955年にフルシチョフがユーゴを訪問し国交を正常化させた。しかし、同年結成されたワルシャワ条約機構には加盟しなかった。1968年のチェコ事件では、ソ連のブレジネフ政権がブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)を掲げて軍事介入したことに対しては強く批判した。
ティトーの国葬
ティトーの自主管理社会主義は「友愛と統一」で多民族国家ユーゴの維持を図ろうというものであった。1960年代には緊張がゆるみ、加えて自主管理社会主義が実質化され、分権化が進むと、民族問題が再燃した。ティトーは民族・共和国間の均衡をとることによって問題の解決に当たったが、その民族政策は結局のところ、ユーゴスラヴィアの解体、そして民族対立による凄惨な内戦に帰結してしまった。
1970年にはクロアティアで市民、学生が自治を要求してストライキを行うなど、民族主義の動きが表面化した。ティトーの連邦政府は運動を抑えつけるとともに自由化を分権化を明確にした新憲法を1974年に制定したが、一方でティトーは議会において終身大統領に選出され、統合の象徴を強化する措置がとられた。しかし、この憲法は各共和国が自立する根拠を与えることとなる。
ティトーが1989年に87歳で死去すると、重しがはずれたようにユーゴスラヴィア連邦内の共和国で民族主義が再燃する。ティトー批判は死後すぐではなく、1980年代後半になり、とりわけセルビアにおいて顕著になった。「74年憲法体制」といったティトーの「遺産」も批判の対象とされるようになり、ジャーナリズムでは「ティトーの第二の死」という表現が好んで用いられた。パルチザン戦争の英雄であり、カリスマ性を備えたティトーに対する、人々の敬愛の念や親しみの感情がすっかり消え失せ、ティトーという呼称ではなく、ブロズという本姓でかれを冷たく呼ぶようになっていく。
1991年のスロヴェニア・クロアチアの独立宣言からユーゴスラヴィアは一挙に解体に向かうことになる。その間、分離に反対するセルビアとの激しい内戦(ユーゴ内戦・ボスニア内戦)が1995年まで続いた。セルビアとモンテネグロは新ユーゴスラヴィア連邦を作ったが、それも2006年に分離したため、連邦国家ユーゴスラヴィアは完全に消滅した。
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