なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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2月24日(日)
タージ・マハルとアグラ城を十分に堪能した後、インド料理の夕食をすませ、アグラ発午後8時30分のシャタブジ急行でデリーに戻る。午後10時40分デリー到着。昨晩も泊まったセントール・ホテルへ。
2月25日(月)
午前11時30分発のインディアン航空(IC-809)でビハール州の州都パトナへ。午後2時30分パトナ着。パトナの昔の名前はパータリプトラ。世界史で習ったマウリヤ朝やグプタ朝の都となった町だ。ここから南東に100キロ離れたラジギールへ専用バスで向かう。午後3時にパトナを出て、ラジギールに午後6時45分に到着した。宿泊するのはいつもお世話になる法華ホテル。
このホテルは日蓮宗の信者さんが日本人観光客のために建てたホテルで、畳の部屋に大浴場もある。夕食はご覧の通り、天ぷら・冷や奴・茄子の田楽と、完全日本食。初めてインドに来た時は、カレーの毎日に飽きた頃にこれをいただいてホットしたものだ。でも今回は旅の初めのほうなので、いまいち有り難みがない。今日は移動するだけの一日。インドは広いね~。
2月26日(火)
2月26日(火)
法華ホテルの朝食はおかゆです。夕べ飲み過ぎましたので、大変助かります。
七葉窟の道すがら現地の子供と記念写真
ラジギールの昔の名前はラージャグリハ。ラージャ(王)の住むところ(グリハ)で、漢訳仏典では王舎城。現在の名前ラージギルは、ラージ(偉大な)ギリ(丘)という意味。今ではすっかり寂れているが、釈尊に帰依したビンビサーラ(頻娑婆羅)王やその子アジャータシャトル(阿闍世)王の時代、マガダ国の都が置かれていた。
ラジギールはもう6回目の訪問なのに、まだ一度も訪ねたことのない仏跡がある。法華ホテルから見えるにもかかわらず、時間がないことを口実に行かなかった場所。それは第一結集が行われた七葉窟【しちようくつ】だ。朝食を終えて出発まで2時間以上あるので、思い切って行ってみることにした。みんなを誘ったんだけど、嫌がって誰も来ない。ガイドのディクジット君には気の毒だが、僕と奥さん二人だけを案内してもらった。
結集【けつじゅう】は経典編纂委員会のこと。第一結集は釈尊が涅槃【ねはん】に入られた年に、この七葉窟に釈尊の優れた弟子500人が集まって開かれた。マハーカッサパ(大迦葉【だいかしょう】)が司会役を務め、ウパーリ(優波離)が律を、アナン(阿難)が経を暗誦した。この時、アナンは出席者に釈尊がどのような教えを説かれたかを紹介する際に、「私はこのように聞きました。」から始めたので、ほとんどのお経は「如是我聞」で始まる。仏教教団にとってそんな重要な集会が開かれたのが、この七葉窟だ。
歩き始めてすぐに後悔した。昨日のお酒が残っている上に暑い。汗だくのふらふら。30分以上かかって漸く到着した。眼下には法華ホテルが見える。みんな、部屋で寝そべってるんだろうな~。罰当たりめ!!
洞窟が7つ並んでいるので七葉窟と言うんだけど、本当にここに500人もの人が集まれたんだろうか?。奥行きは6キロもあるなんて話もあるけど、そんな中に多くの人間が入ったら、さぞかし息苦しいだろうし。地震で崩れたから現在の規模になったという話も聞いたことあるけど。まあ、疑うのはやめましょう。ここに釈尊の高弟が集ったのは事実だ。そう考えると、僕もその集会に参加していたような気になって、ありがたくなり、合掌。疲れました。
洞窟が7つ並んでいるので七葉窟と言うんだけど、本当にここに500人もの人が集まれたんだろうか?。奥行きは6キロもあるなんて話もあるけど、そんな中に多くの人間が入ったら、さぞかし息苦しいだろうし。地震で崩れたから現在の規模になったという話も聞いたことあるけど。まあ、疑うのはやめましょう。ここに釈尊の高弟が集ったのは事実だ。そう考えると、僕もその集会に参加していたような気になって、ありがたくなり、合掌。疲れました。

午前9時30分、ホテルを出て竹林精舎へ。精舎【しょうじゃ】(ビハーラ)は簡単に言えばお寺。コーサラ国の都・舎衛城【しゃえいじょう】にあった祇園精舎が有名だけど、仏教のお寺第一号はこの竹林精舎。迦蘭陀【からんだ】長者が所有していた竹林を釈尊に寄進し、ビンビサーラ王が伽藍を建てたと言われている。もちろん今は伽藍が残っている訳ではなく、竹だけが生い茂っている。(それにしてもインドの竹は密集して生えており、あまり風情がない。)釈尊は80年の生涯を遊行された方だから一箇所に長くとどまることはなかった。ただ、6~8月の雨期の季節には遊行は困難で、その間居住するために建てられた出家者用の建物が精舎。だから、伽藍と言えるほど立派なものではなく、木造の掘っ立て小屋だったはずだ。小学生の遠足だろうか。たくさんの女の子達に囲まれて、つい頬が緩んでしまった。

午前10時20分、リフトに乗ってラトナギリ(多宝山)へ。リフト?って思うでしょ。もちろんスキーをするためではありません。聞いたところによると、このリフトは日本山妙法寺さんが多宝山の頂上に平和記念仏塔を建てた際に、資材を運ぶために設置したものらしい。仏塔建築が終われば取り壊す予定だったが、インド側に頼まれてそのまま残したら、一躍インド人の人気観光スポットになった。そりゃそうだよね。ビハール州はインドの中でも一番貧しい地域で、娯楽施設なんて全くないもんね。この日もお詣りのためか、リフト目当てか分からないけど、たくさんの人が来ていた。
多宝山の平和記念仏塔は藤井日達上人が「仏教西漸」を願って建立されたもの。奥さんが神妙に手を合わせてますが、それ僕に向かって合掌してますよ。まあ、それほど僕が有り難い存在だということか?(笑)
さあ、これから遙か下に見える霊鷲山【りょうじゅせん】に向かいます。普通なら、霊鷲山の麓からビンビサーラ王が釈尊の説法を聞くために造ったと言われるビンビサーラ・ロードを登るんだが、今回は多宝山から尾根伝いに霊鷲山まで下っていく。
こんな道を下ること30分。ようやく霊鷲山に到着。
中には道楽して一旦リフトを下り、駕籠で登って来た不埒な奴が。誰だっ。駕籠は500ルピー(現在800円)で、体重により割り増し料金を取られます。
釈尊が法華経を説かれた香室
霊鷲山はサンスクリット語でグリドラ・クータ。法華経には音訳した耆闍崛山【ぎしゃっくせん】の名でも登場する。グリドラははげ鷲のこと。名前の由来は頂上部にある岩が鷲の姿に似ているからという説と、昔ここが鳥葬が行われた場所であったからという説がある。釈尊は死体置き場で修行されることが多かったので、恐らく後者の説が正しいと思うが、いずれにしてもこのお山は釈尊が法華経を説かれた場所。(真宗のお坊さんは観無量寿経を説かれた場所だとおっしゃるでしょうね。)
霊鷲山に初めて登ったのは平成5年。夜明け前にビンビサーラ・ロードを登り、ご来光を拝みながら唱題した時、まぶたの裏に釈尊のお姿を見て、涙が止まらなかったことを思い出す。平成9年に登った時には父親の遺骨を1片、ここに葬った。平成23年に亡くなった母の遺骨も持って来なくては。でも、息子たちは僕が死んだ後、遺骨を持ってここまで来てくれるだろうか?
霊鷲山に初めて登ったのは平成5年。夜明け前にビンビサーラ・ロードを登り、ご来光を拝みながら唱題した時、まぶたの裏に釈尊のお姿を見て、涙が止まらなかったことを思い出す。平成9年に登った時には父親の遺骨を1片、ここに葬った。平成23年に亡くなった母の遺骨も持って来なくては。でも、息子たちは僕が死んだ後、遺骨を持ってここまで来てくれるだろうか?
一旦ホテルに戻り昼食を取った後、午後1時45分、バスでブダガヤへと向かった。(つづく)
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