なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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2月26日(火)
ラジギールを出て2時間あまり、午後4時にブダガヤに到着。最初にスジャータ村を訪ねた。スジャータ村はネーランジャラー川(尼蓮禅河【にれんぜんが】)の東岸にあり、釈尊の時代はセーナ村といったが、現在はスジャータ村と呼ばれている。スジャータは成道前の釈尊に乳がゆを供養して釈尊の命を救った少女の名前。「褐色の恋人スジャータ」という「めいらくグループ」が発売しているコーヒーフレッシュがあるが、乳つながりで命名されたそうだ。
29歳で出家された釈尊はスジャータ村の南にあるウルヴィルヴァーの林で、6年間の苦行に打ち込まれたと伝えられる。苦行の原語はサンスクリット語のタパスで、本来「熱、熱力」を意味する言葉。身体を傷めつけて精神を鍛えることによって、身体の中に特殊な熱力、神通力が蓄積されると考えられていた。釈尊は一粒のゴマや米などによって日を過ごされたり、食をまったく断たれたりして、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい苦行に励まれました。
その結果、有名なパキスタンのラホール博物館の苦行像のようなお姿になってしまわれます。眼窩【がんか】恐ろしく骸骨のように大きく落ちくぼみ、身はやせ細り、肋骨が1本1本浮き出て血管が走り、腹部は木の空洞のように深くくぼみ、腕は枯れ枝のように細く、死ぬ寸前の状態になってしまわれます。
しかし、釈尊が求めていた人生の苦を根本的に解決する智慧は得られません。苦行は心身を極度に消耗するのみであるとして苦行を捨てられた釈尊は、ネーランジャラー川で沐浴されます。この時、セーナ村の少女スジャータが乳がゆを釈尊に供養し、これによって釈尊は体力を回復されました。
スジャータは古代インドの女性名で、“良い生い立ち、素性”を意味するそうだが、僕は世界史の授業で彼女をシュードラの娘として紹介している。バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4階級からなるヴァルナ制では、穢れということを重視するので、階級の違うものが同じ場所で食事をしたり、階級の下位の者から食事を受け取ってはならない。釈尊はもちろんクシャトリヤだから、シュードラの娘スジャータが差し出す乳がゆを受け取って食してはならない。だから、乳がゆを食べられたということは、ヴァルナ制、つまりカーストを否定する高らかなる宣言であった、と。
スジャータの徳を讃えて造られたストゥーパは8~9世紀に建立されたものと言われているが、この場所にスジャータの住まいがあったそうな。スジャータがいなかったら、釈尊も命を失っていたかもしれない。そう考えると、スジャータは仏教の恩人だ。で、その乳がゆというものを平成9年に来た時に食べさせていただいたが、残念ながらそんなに美味しいものではなかった。
午後4時20分、ブダガヤの大菩提寺(マハー・ボディー寺)に到着。大菩提寺は釈尊成道の地に建てられたお寺で、2002年にユネスコの世界遺産に登録された。世界遺産になる前はバスから降りた途端に、土産物屋がマンツーマンでくっついて来て商売をした。「センシェイ、コレ安イネ。コレ、ジェンブデ1,000エンネ。買ウ?」「要らない。」「ソンナコト言ワナイデ、買ッテ。コレモ付ケテ、ジェンブデ1,000エ~ン。」「ナヒーン、チャヒエ(要らない)。」金魚の糞みたいにずっとついて周り、ゆっくりお詣りすることもできなかったが、今では敷地内から土産物屋は排除されているので、落ち着いてお詣りすることができる。
本堂にあたる大精堂は52メートルあり、13世紀にイスラーム教徒が侵入した際にこれを土で覆い隠して守ったそうだ。バーミヤンの大仏を破壊したタリバーンのことを考えると、隠していなければ破壊されていたに違いない。重機もない時代にこんなでかいものを隠すための土を運ぶ作業がいかに大変だったか、当時の人々の信仰心の厚さが忍ばれる。
本堂にあたる大精堂は52メートルあり、13世紀にイスラーム教徒が侵入した際にこれを土で覆い隠して守ったそうだ。バーミヤンの大仏を破壊したタリバーンのことを考えると、隠していなければ破壊されていたに違いない。重機もない時代にこんなでかいものを隠すための土を運ぶ作業がいかに大変だったか、当時の人々の信仰心の厚さが忍ばれる。
1876年にビルマ王が3人の官吏を派遣して、600年以上埋没していた基底部を発掘。その後、インド政府も黙って見過ごすことができなくなり、1863年にイギリスのアレキサンダー・カニンガムの指導のもとが発掘に着手。カニンガムはインダス文明のハラッパー遺跡の発掘でも知られる考古学者で、インド考古局を設立たことでも知られる。さらに1881年にベーグラーが金剛宝座を探りあて、その下から仏舎利【ぶっしゃり】(釈尊のご遺骨)を発見した。大精堂は土に埋もれていた分、周りのほうが高いので、階段を降りて参拝する。
東側の正面入り口から中に入ると、正面に西壁を背にした2メートルほどの釈迦像が目に飛び込んでくる。降魔成道【ごうまじょうどう】 の釈尊の姿で、9~10世紀ころの作とされる。本来は黒石であったらしいが、ミャンマーの信者さんによって金箔で覆われて、金ピカピンになった。日本人からすると、要らんことすんなちゅ~の、と言いたくなる。
大精堂の裏手にわれわれ仏教徒にとって一番大切な聖地がある。釈尊がお悟りを開かれた金剛宝座と菩提樹である。菩提樹は釈尊当時のものではなく、4代目らしい。スジャータの乳がゆ供養を受け体力を回復された釈尊は、瞑想をされようと前正覚山の中腹にある洞穴に入られた。ところが、お坐りになろうとした時、山が3度震動し、山の神が「この地は真理を得るのには適さない山です。 この地の南東にある菩提樹下に向かわれるように」と告げられたとのこと。ちなみに、釈尊がお悟りを開かれたから菩提樹と呼ばれるようになったんで、当時はピッパラ樹とかアシュヴァッタ樹と呼ばれていた。
釈尊はこの菩提樹の下で瞑想され、7日目の12月8日、明けの明星が東の空に輝く頃、ついに悟りを開きブッダとなられた。釈尊35歳の時のこと。その場所が金剛宝座と呼ばれているが、現在は石の柵で囲まれており中に入ることは出来ない。平成5年に初めて来た時は中に入れたのだが、オウム真理教の麻原彰晃の罰当たりが金剛宝座に上がり、参詣者によって引き下ろされた事件以降、中に入ることが出来なくなった。えっ、何を悟られたたかって?それはまた、いずれ。
金剛宝座と菩提樹に向かいお自我偈をお唱えし、高らかにお題目を唱える。至福の時である。涙があふれ、止まらない。この場所に6度も来れたという幸せにただただ感謝である。
しばらく境内を散策する。大精堂の西側にムチャリンダ竜王が住むという池がある。釈尊は悟りを開かれたあと7日間、菩提樹の下で足を組んだままの姿勢で「解脱の安楽」を心ゆくまで味わわれたという。その後7日間アジャパーニグローダ樹、さらに7日間ムチャリンダ樹の下で解脱の安楽を楽しまれた。ムチャリンダ樹の下にお坐りになられた時、時季はずれの雨が7日間降り続き、冷たい風が吹いたそうだ。その時ムチャリンダ竜王が釈尊の身体を覆って風雨から守ったという言い伝えがある。竜というと中国の竜を思い浮かべると思うけど、漢訳仏典の竜の原語はナーガで蛇のことだ。インドで蛇と言えば、もちろんコブラ。コブラは興奮すると鎌首を広げるから、傘のようになって釈尊の身体を風雨から守ることが出来る。だけど、池の真ん中にわざわざその像を造らなくてもいいんじゃないの。想像するだけでいいの。想像するだけで、十分。
そのコブラに翌日会うことになるとは、この時は夢にも思わなかった。
大聖堂とムチャリンダ竜王の池の間にアショーカ王柱がある。アショーカ王はマウリヤ朝3代目国王。初めてインドを統一した国王であるが、統一戦争の過程で多くの犠牲者が出たことから仏教に帰依した。アショーカ王は全国8か所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘し、新たに8万4千(本当に84,000あるんじゃなくて、たくさんという意味)のストゥーパを建立し分納したと言われる。さらに釈尊ゆかりの地に石柱碑を立てたが、現在でも立っているのはヴァイシャリーのものだけだ。インドの国章にもなっているサールナート博物館にある獅子柱頭も倒れてしまった石柱の頭の部分。ここの石柱も途中で折れていまっているが、アショーカ王柱が立っているということは、金剛宝座を造ったのがアショーカ王であるという証拠だ。その下から仏舎利も出土してるしね。
大菩提寺をお詣りして幸せな気分で近くにあるスジャータ・ホテルへ。ブダガヤに来たら必ずお世話になるホテルだが、ここのオーナーのプラサド氏は日本人の心をよく分かっている、ということは日本人に対する商売が大変上手な人で、京都で同じ名前のレストランも経営している。
今日の晩ご飯はもちろんカレー。バナナの葉の上に乗せられおり、みんな大喜びだったんだけど、YさんとTさん、焼きそばばっかり食べてるね。カレーは口に合いませんでしたか?(つづく)
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