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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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法華経随喜功徳品第18 80年布施した大施主に勝る50人番目の人の福徳

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 その時、まさに誰かある人が現われて、衆生の福徳を願い、また衆生の幸福を願って、その多数の衆生が願い求めている楽しくて、心にかなったあらゆる快楽、遊び、喜び、享楽を与えるとしよう。その快楽、遊び、享楽のために、一人ひとりの衆生にジャンブー州(閻浮提 えんぶだい・仏教の世界観で人間が住む大陸)に満々として、金貨、黄金、銀、宝石、真珠、瑠璃 るり螺貝 らがい碧玉 へきぎょく珊瑚 さんごを与え、また馬の車、牛の車、象の車、そして宮殿や、楼閣を与えた。

 アジタよ、このようにして、施主であり、大施主であるその人は、まうまる80年にわたって施物を与えた。そこで、アジタよ、施主であり、大施主であるその人は、次のように考えた。

 『私は、実にこれらのすべての衆生を喜ばせ、楽しませ、安楽に生活させた。しかしながら、あなたたちよ、これらの衆生は、しわがより、白髪頭となり、生まれて80歳の年をとった高齢の老人である。しかも、これらの人たちは死に近づいている。そういうわけで、私は今、これらの人たちをブッダによって解かれた法(真理の教え)と律(出家者の守るべき規則)に悟入させ、導こう』と。

 そこで、アジタよ、その人は、それらのすべての衆生を教化し、教化して後に、ブッダによって解かれた法と律に悟入させ、理解させるとしよう。

 それらの衆生、その人からその法を聞いた。聞いて後に、一刹那 せつな、一瞬時、一瞬間にして、すべての衆生は、「聖者としての流れに入ったもの」、「天界から人間界にもう一度だけ還って来て覚りを得るもの」、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」となり、「二度と迷いの世界に還って来ないもの」の果を得て、煩悩を滅し、禅定に専念し、大いに禅定に励み、8種類の解脱によって禅定を行する阿羅漢 あらかんにまでなるであろう。

 ところで、アジタよ、あなたは、このことをどう考えるか?施主であり、大施主であるその人は、その理由によって、無量で数えることもできない多くの福徳を生みだすであろうか?

 世尊からこのように言われて、偉大な人である弥勒菩薩は、世尊に次のように申し上げた。

 「世尊よ、これはその通りです。人格を完成された人よ、これはその通りです。世尊よ、まず第一に、安楽をもたらすあらゆるものをそれほど多くの衆生に与える施主で、大施主であるその人は、まさにその理由によって、多くの福徳を生み出すでありましょう。ましてや、それらの衆生を阿羅漢の位に立たせる人が多くの福徳を生み出すということは、言うまでもないことであります」
 
 弥勒菩薩からこのように言われて、世尊は、偉大な人であるアジタ菩薩に次のようにおっしゃられた。

 「アジタよ、私は、あなたに告げ、知らせよう。施主であり、大施主であるその人が、すべての衆生に安楽をもたらすあらゆるものによって、400・1000・阿僧祇 あそうぎもの世界を満たし、すべての衆生を阿羅漢の位に立たせ、福徳を生み出すとしよう。一方、この法門を連続して順次に聞いて達した50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも耳で聞いて、喜ぶとしよう。

 〔後者の〕この50番目の人が、この法門から一つの詩でも、一つの句でも聞いて喜んで受け容れることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容と、〔前者の〕施主であり、大施主であるその人が、布施することに伴い、阿羅漢の位に立たせることに伴っている福徳を生み出す行ないの内容とでは、〔後者である〕その中断なく連続して語り継がれたこの50番目の場合のほうが、その〔前者の〕場合よりもずっと内容が富んでいるのである。

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 アジタよ、この法門から一つの詩でも、一つの句でも喜んで受け容れることに伴って生じるこの福徳、および善い果報をもたらす善根に比べれば、先ほどの布施することや、阿羅漢の位に立たせることに伴って生じる福徳は、その100分の1にも及ばないし、1000分の1にも、100・1000分の1にも、1・コーティ分の1にも、100・コーティ分の1にも及ぶことはない。その差は、数えることも、考えることも、計算することも、譬えることも、近づくこともできないのだ。

 アジタよ、この法門を連続して順次に聞いてちょうど50番目のその人もまた、この法門からただ一つの詩でさえも、一つの句でさえも聞いて、喜んで受け容れるならば、このように、無量で数えることもできない福徳を生み出すであろう。アジタよ、ましてや、私の面前で、この法門を聞き、聞いた後に喜んで受け容れる人は、言うまでもないことである。アジタよ、その人のその福徳の生成は、さらに無量であり、さらに数えることもできないのであると、私は言おう。

 さらに、アジタよ、良家の息子であれ、良家の娘であれ、この法門を聞くことを目的として、自分の家を出て、精舎に行く人が、そこへ行って、立ったままか、坐ったままで、この法門を瞬時でも聞くとしよう。その人は、それだけ多くの福徳を生じて蓄積し、現在の生存を終え、生まれ変わって、第二の人生で第二の自己の身体を獲得する際に、牛の車を獲得したものとなろう。また馬の車、象の車、輿 こし牝牛 めうしの車、牡牛 おうしの車、神々の天上の乗り物を獲得したものとなるであろう。

 さらに、もしも、法を聞くその場において、瞬時の間でも坐ってこの法門を聞いたり、あるいは他者を坐らせたり、あるいは他の衆生のために座席を譲り与えることをなすならば、その人は、その福徳の生成によってシャクラ神(帝釈天)の座席、ブラフマー神(梵天)の座席、転輪王の獅子座を獲得したものとなるであろう。(つづく)

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テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2023/03/10 05:26 】

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