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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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亡き父母を供養する子のために 千日尼御返事⑤

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

千日尼御返事⑤

 しかるに故阿仏聖霊は日本国北海の島のえびすのみ(身)なりしかど

も、後生ををそれて出家して後生を願ひしが、流人日蓮にあひて法華経

を持ち、去年の春、仏となりぬ。尸陀山 しだせん野干 やかんは仏法にあひて、生をい

とひ死を願ひて帝釈 たいしゃくと生まれたり。阿仏上人は濁世の身を厭ひて仏に

なり給ひぬ。その子藤九郎守綱はこの跡をつぎて一向、法華経の行者と

なりて、去年は七月二日、父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て甲

波木井 はきりの身延山に登りて法華経の道場にこれにおさめ、今年はまた七

月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたるたからなし、子に

すぎたる財なし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

七月二日                      日 蓮 花押

故阿仏房尼御前御返事

追申

 絹染の袈裟一つまいらせ候ふ。

 豊後房に申さるべし。既に法門日本国にひろまりて候ふ。北陸道をば

豊後房なびくべきに学生ならでは叶ふべからず。九月十五日以前にいそ

ぎいそぎまいるべし。

 かずの聖教をば日記のごとくたんば(丹波)房にいそぎいそぎつかわ

すべし。山伏房をばこれより申すにしたがいて、これへはわたすべし。

山伏ふびんにあたられ候ふ事悦び入りて候ふ。

【現代語訳】

 話をご夫君の聖霊のことに戻しますが、故※1仏房殿は、日本国は北海の島のえびすの身分

のものでありましたけれど、死んでから悪道に落ちることを恐れて出家し、念仏して極

楽往生を願っていましたが、流人として御地に赴いた私に会って法華経の信仰を持ち、

去年の春、亡くなって仏になられました。それは、あたかも、※2陀山の狐が、仏法にめ

ぐりあって生をいとい死を願って帝釈天と生まれ変わったようなものです。阿仏上人は濁

った現世の身を厭って仏におなりになったのです。その子の藤九郎守綱は父の遺志を継

いで熱心な法華経の行者となって、去年は7月2日、父の遺骨を首にかけ、一千里の山

を越え海を渡って甲州波木井の身延山に登り、法華経の道場に納骨を済ませ、今年はま

た7月1日、身延山に登って慈父の墓を拝みました。子ほどすばらしい財宝はありませ

ん。子よりも秀れた財宝はありません。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。

七月二日                            
日 連  花押

故阿仏房尼御前御返事

追伸

 絹染の袈裟を一領さしあげます。

 豊後房にお伝えください。「すでに私の説く法門が日本国に広まってきました。北陸

道方面は豊後房が布教しなければならないわけですが、学問のある者でなければ不可能

なことです。九月十五日以前に大急ぎで身延山へいらっしゃい」と。

 数々の聖教を、日記に書いたように丹波房に大急ぎで渡しなさい。山伏房を、私が言

った通りに身延山へよこしなさい。山伏房をあわれんで扱ってくださったことをとても

悦んでいます。

【語註】

 ※1 
阿仏房:阿仏房は俗姓を遠藤為盛といい、承久の乱で佐渡に遷された順徳上皇に
           随従した北面の武士であった。上皇崩御の後、阿仏房夫妻は入道・尼となってこ
           の地に留り、御陵の傍らに庵を結んで上皇の冥福を祈り、念仏する毎日を送っ
           た。文永8年(1271)11月1日、日蓮聖人は塚原の三昧堂に居住し、かくして
           配所の生活が始まったが、このことを聞いた阿仏房は配所を訪れ、宗敵の情を懐
           いて聖人をせめ、かえって論破されて教化に浴した。阿仏房は身延に入山された
           日蓮聖人を追慕し、国府入道と共に文永11年(1274)と建治元年(1275)6月
           と弘安元年(1278)7月の3度までも佐渡から90歳という高齢にも拘らず身延を
     訪れている。

 ※2 尸陀山の野干:尸陀山はインドの毘摩【びま】大国にあった山。野干は狐の一
           種。未曾有経巻上によると、この山に住んでいた野干が師子王に追われて涸かれ
           井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に、万物の無常を嘆き、仏に帰命して罪障
           消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈は諸天を率いて説法を請うたといわ
           れる。

【解説】

 
阿仏房の妻千日尼は、夫の阿仏房と共に日蓮聖人に帰依し、佐渡における聖人の有力

な外護者となっており、その千日尼の法号は、聖人が在島した2年5ヵ月の間、約1000

日間の尼の供養に因んで授けられたものといわれている。

 
阿仏房は弘安2年(1279)3月21日に91歳で寂した。その子藤九郎守(盛)綱は、

その年の7月2日に父の舎利を頸に懸けて日蓮聖人を訪ね、身延の地に遺骨を埋葬し

た。さらに翌年の7月1日に再び身延の父の墓に詣でた。その折、藤九郎に委ねた、母

・千日尼にあてたお手紙である。

 
日蓮はまず阿仏房の魂は「霊鷲山にそびえている多宝塔の中に、東向きに坐って、釈

迦・多宝の二仏と対面している」と、阿部房が成仏しているという確信を伝えている。

阿仏房が成仏できないのなら、「諸仏は地獄に落ちる」と、かなり歌劇な表現までも加

えられている。

 そして、はるばる佐渡から身延の道場に亡き父の供養に来た遺子藤九郎守綱の姿を語

っている。その行為は、三度老体をひっさげて身延の日蓮に詣でた亡父の心ざしを身を

もって継承する法華経孝養の姿として日蓮は褒め称えたのである。それは「安足国王と

馬と父子」の故事にも似ており、さらに母の苦を救った目連や父母の邪見を改めさせた

浄蔵・浄眼二子のありように勝るとも劣らない法華経孝養者の生き方であったからであ

る。

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テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2023/09/28 05:43 】

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