なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
妙心尼御前御返事②
妙心尼御前御返事②
入道殿は今生にはいたく法華経を御信用ありとは見え候はねども、過
去の宿習のゆへかのもよをしによりて、このなが病にしづみ、日々夜々
に道心ひまなし。今生につくりをかせ給ひし小罪はすでにきへ候ひぬら
ん。謗法の大悪はまた法華経に帰しぬるゆへにきへさせ給ふべし。ただ
いまに霊山にまいらせ給ひなば、日いでて十方をみるがごとくうれし
く、とくし(死)にぬるものかなと、うちよろこび給ひ候はんずらん。
中有の道にいかなる事もいできたり候はば、「日蓮がでし(弟子)な
り」となのらせ給へ。わずかの日本国なれども、さがみ(相模)殿のう
ちのものと申すをば、さうなくおそるる事候ふ。日蓮は日本第一のふた
う(不当)の法師。ただし法華経を信じ候ふ事は、一閻浮提第一の聖人
なり。その名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。「日
蓮が弟子」となのらせ給はば、いかなる悪鬼などなりとも、よもしらぬ
よしは申さじとおぼすべし。
去の宿習のゆへかのもよをしによりて、このなが病にしづみ、日々夜々
に道心ひまなし。今生につくりをかせ給ひし小罪はすでにきへ候ひぬら
ん。謗法の大悪はまた法華経に帰しぬるゆへにきへさせ給ふべし。ただ
いまに霊山にまいらせ給ひなば、日いでて十方をみるがごとくうれし
く、とくし(死)にぬるものかなと、うちよろこび給ひ候はんずらん。
中有の道にいかなる事もいできたり候はば、「日蓮がでし(弟子)な
り」となのらせ給へ。わずかの日本国なれども、さがみ(相模)殿のう
ちのものと申すをば、さうなくおそるる事候ふ。日蓮は日本第一のふた
う(不当)の法師。ただし法華経を信じ候ふ事は、一閻浮提第一の聖人
なり。その名は十方の浄土にきこえぬ。定めて天地もしりぬらん。「日
蓮が弟子」となのらせ給はば、いかなる悪鬼などなりとも、よもしらぬ
よしは申さじとおぼすべし。
さては度々の御心ざし申すばかりなし。恐恐謹言。
さる(猿)は木をたのむ。魚は水をたのむ。女人はおとこをたのむ。
わかれのをしきゆへにかみをそり、そでをすみにそめぬ。いかでか十方
の仏もあはれませ給はざるべき、法華経もすてさせ給ふべきとたのませ
給へ、たのませ給へ。
わかれのをしきゆへにかみをそり、そでをすみにそめぬ。いかでか十方
の仏もあはれませ給はざるべき、法華経もすてさせ給ふべきとたのませ
給へ、たのませ給へ。
八月十六日 日 蓮 花押
妙心尼御前御返事
病と道心
ご夫君は、以前はあまり熱心に法華経をご信仰なさっているとは見えませんでしたが、
前生で積んだ善行のおかげででもあるのでしょうか、このたびの長い病気を機縁とし
て日々夜々に法華経信仰に励む身となられました。もう、この世で犯した小さな罪は消え
てしまったことでしょう。いやそればかりではなく、謗法の大悪といえども法華経に帰依
したことでお消しになったに違いありません。もし今、この世を辞して霊山浄土においで
になったとしても、太陽が昇って十方が明るく見渡せるように嬉しく、早く死んでよかっ
たなと、お喜びになることでしょう。万一、浄土へ行く途中で支障が起こるようなことが
ありましたら、「日蓮の弟子である」とお名乗りください。小さな日本国の中でも、執権
北条時宗殿の身内のものに対しては意味もなく畏敬することがあります。まして私は、世
俗的には日本一の反逆法師ですが、法華経信仰の上では閻浮提第一の聖人です。そういう
日蓮の名は十方世界の浄土に響きわたっているはずです。きっと天も地も知っているに違
いありません。だから、「自分は日蓮の弟子である」とお名乗りになるならば、どんなに
恐ろしい悪鬼どもでも、まさか、「日蓮などという者は聞いたことがない」などというこ
とはないでしょう。ご安心なさってください。
それにしても、たびたびご供養の品をお届けくださる御志を、とてもありがたく思って
います。恐恐謹言。
います。恐恐謹言。
追伸 猿は木を頼りとします。魚は水を頼りとします。そのように、女性は夫を頼りとす
るものです。あなたは、ご夫君との永の別れを惜しんで、髪を切り、墨染の衣を着る尼僧
となりましたね。そのお気持ちを、どうして十方の仏がお哀れみくださらないはずがあり
ましょうか。また法華経も、決して自分を見捨てなさることはないと信じて、ひたすら信
行増進に励まれますように。
るものです。あなたは、ご夫君との永の別れを惜しんで、髪を切り、墨染の衣を着る尼僧
となりましたね。そのお気持ちを、どうして十方の仏がお哀れみくださらないはずがあり
ましょうか。また法華経も、決して自分を見捨てなさることはないと信じて、ひたすら信
行増進に励まれますように。
八月十六日 日 蓮 花押
妙心尼御前御返事
【解説】
妙心尼は駿河国在住と思われる女性檀越で、重病の夫と幼児をかかえて、夫の病気平
癒と後生善処および子の無事生育の祈願を日蓮聖人に請うていた。
日蓮は業病を決して不治のものとあきらめる見方をとっていない。「定業ですら、よ
くよく懺悔すれば必ず消滅する」と言ったように、信ずる心の強さ、ひたむきさという
ものが病を癒やし、運命を切り開く精神のエネルギーとなり得ることを強調した。病め
る社会のただ中にあって、命を尊び仏の救いを信じて、自らを励ましていく生き方を貫
けるかどうか、病はまさにその試練なのだというのである。その意味で、「病は仏のは
からい」である。
病気というのは、人間にとって一つの身心にわたる危機に直面したということである。
丈夫な時は、命や病気の苦悩に気づくことはない。いざ、病におかされて初めて、健康
のありがたさ、命の尊さを思う。自分はいったい今までに何ほどのことをして来たのか、
懺悔の念がわき起こる。そしてまた、悔いのない生涯をまっとうする人生をこと改めて
思い、誓うことがあるのではないか。「病によって道心がおこる」という意味はこれで
あろう。
病気のわが身を見つめることは、自己の不遜なごう慢さや絶対化を否定して、限りあ
る命を真実の生き方にかけていくことであろう。妙心尼の夫が、病気から道心をおこし
て、法華経を信仰するに至った心の底は、このような思いであったに違いない。
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