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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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命は第一の宝 富城殿女房尼御前御書

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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)

富城殿女房尼御前御書ときどのにょうぼうあまごぜんごしょ

弘安3年(1279)11月25日、58歳、於身延、和文

 恩ある富木尼が病気であることを気づかい、命を永らえるよう祈ることを勧めている。

 いよ(伊予)房は学生がくしょうになりて候ふぞ。つねに法門きかせ給ひ候

へ。

 はるかにみまいらせ候はねば、をぼつかなく候ふ。

 たうじ(当時)とてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわび

しく候ひし時より、やしなわれまいらせて候へば、ことにをん(恩)を

もくをもひまいらせ候ふ。それについては、いのちはつるかめのごと

く、さ
いわいは月のまさり、しを(潮)のみつがごとくとこそ、法華経

にはいのりまいらせ候へ。

 さてはえち(越)後房・しもつけ房と申す僧をいよどのにつけて候ふ

ぞ。しばらくふびんにあたらせ給へと、とき殿には申させ給ふ。恐恐謹

言。

十一月二十五日                   
日 蓮 花押

富城殿女房尼御前

【現代語訳】
法華経への祈りーいのちは鶴亀のごとく

 ※ 1予房日頂はもう学僧になりましたよ。ですから、怠らずに法門をご聴聞なさいます

ように。

 久しくお目にかかっておりませんので、その後、お身体のお具合いはいかがかと気が

かりです。

 私は、現在といっても別に安楽に暮らしているわけではありませんが、以前、ことに

苦難の生活を強いられていた時からあなたには引き続きご供養を受けておりますので、

ことさらに重いご恩を感じております。それにつけても、あなたのお身体について、寿

命は鶴や亀のように長く保ち、幸いは月が明るさを増し潮が満ちていくようにと、法華

経にお祈り申し上げています。

 さて、このたび、※ 2後房と※ 3野房という門弟を伊予殿につけてうかがわせます。この

二人は※ 4原の法難によって身をひそめているものですから、しばらくの間、面倒をみて

いただきたいと、ご夫君によろしくお願い申し上げてください。恐恐謹言。


十一月二十五日                         
日 蓮  花押

富城殿女房尼御前

【語註】

 ※1 
伊予房日頂:富木常忍は。妻が早世し、父の蓮忍も早く亡くなった。90歳の長
           寿を全うする老母と暮らしているところへ、子連れの女性を後妻に迎えた。この
           手紙の相手が、その後妻に入った尼御前であり、常忍の養子となった連れ子が幼
           い時に真間弘法寺(当時は天台宗)に入って出家し、のちに六老僧の一人となっ
           た日頂である。日蓮の佐渡配流期にも、身延隠棲期にも常に側にあって給仕・修
           学に勉めた。この時、28歳であった。

 ※2 越後房:駿河国富士郡下方の天台宗瀧泉寺の僧で、日興の教化により日蓮の門下
           に加わった日弁のこと。瀧泉寺にあって、下野房日秀とともに当地方に日蓮の教
           えを広め、熱原【あつわら】郷を中心に熱烈な信徒集団を結成したので瀧泉寺院
           主代平左近入道行智から弾圧された。その最も激しかった弘安2年(1279)の熱
           原法難の際には、日蓮は日弁を日秀ともども下総へ避難させている。

 ※3 下野房:駿河国の天台宗瀧泉寺の僧で日弁と行動をともにした日秀のこと。

 ※4 熱原の法難:弘安2年(1279)9月、駿河国富士郡熱原(現・富士市の一部)で
           日蓮門下の農民たちに加えられた弾圧。この法難では、百姓熱原神四郎ら20名
           が捕らえられて鎌倉に送られ、うち3名は斬首、他は禁獄の刑を受けた。指導者
           の日弁と日秀は下総の富木常忍のもとへ難を避けた。

【解説】

 この手紙は、富城殿御返事と日付が同じであり、富木常忍への手紙と同時に、尼御前

にも認められたものと考えられている。日弁・日秀を熱原の法難から避難させるため、

日頂が2通の手紙を預かり、下総に向かったのと考えられる。

 冒頭の2行は、追伸として後から書き込んだもので、日頂が学徳を備えた学生になっ

たことを知らせ、日頂を師として法門を聞くように述べているが、わが子が日蓮より大

きな期待を寄せらていることを聞いて、尼御前の喜びはいかばかりであっただろうか。

 「いのちはつるかめのごとく」と言われているのも、尼御前の長寿を願われての激励

である。さらに、たんに長寿を願うのみではなく、月が満ちて光を増し、潮がひたひた

と満ちてくるように、幸せに満ちみちた生涯であるようにとの思いも込められている。

 日蓮のこうした激励・祈りもあり、尼御前は病気がちではあったが、
信仰の功徳によ

このあと20年以上も生き、嘉元元年(1303)11月1日まで長生きしたと伝えられてい

る。

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テーマ:仏教・佛教 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2023/10/31 05:44 】

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