なまぐさ坊主の聖地巡礼
プロフィール
Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。
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波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
新尼御前御返事④
新尼御前御返事④
しかるに日蓮、上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれる
は、かの菩薩の御計らひかと存じて、この二十余年が間これを申す。こ
の法門弘通せんには「〔如来の現在すらなお怨嫉多し。いわんや滅度の
後においておや〕」「〔一切世間に怨多く信じ難し〕」と申して、第一
のかたきは国主並びに郡郷等の地頭領家万民等なり。これまた第二第三
の僧侶がうつたへについて、行者を或は悪口し、或は罵詈し、或は刀杖
等云云。
は、かの菩薩の御計らひかと存じて、この二十余年が間これを申す。こ
の法門弘通せんには「〔如来の現在すらなお怨嫉多し。いわんや滅度の
後においておや〕」「〔一切世間に怨多く信じ難し〕」と申して、第一
のかたきは国主並びに郡郷等の地頭領家万民等なり。これまた第二第三
の僧侶がうつたへについて、行者を或は悪口し、或は罵詈し、或は刀杖
等云云。
しかるを安房の国東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。そ
の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給ひてこ
そありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の
御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源の右将軍と申せし人、御
起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の
外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日
本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。この人東条の郡を天照太神の御栖と
定めさせ給ふ。さればこの太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国
東条の郡にすませ給ふか。例せば、八幡大菩薩は昔は西府にをはせしか
ども、中ごろは山城の国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み
給ふ。これもかくのごとし。
日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡に始めてこの正法を弘
通し始めたり。随ひて地頭敵となる。かの者すでに半分ほろびて今半分
あり。
正法弘通
ところで私は、上行菩薩ではありませんが、末法時代の仏法のあり方について、およ
その事を予知したのは、上行菩薩のお計らいによるものであろうと思って、この20余年
の間、妙法蓮華経の5字を広めることに努めてきました。この法門を弘通するとなると、
法華経の法師品に「この経を信受するものは、如来の在世中でさえも怨み嫉みが多い。
まして滅後には、世間全般に怨みが多くて信じることが困難である。」と言われている
通り、三類の怨敵に苦しめられるわけですが、その第一の怨敵「俗衆増上慢」と
は国主ならびに郡・郷等の地頭・領家およびそれに従う人民です。この連中が、第二の
怨敵「道門増上慢」や第三の怨敵「僣聖増上慢」といった僧侶たちの訴えるところに
随って、法華経の行者を、あるいは悪口をあびせ、あるいは罵倒し、あるいは打ったり
切ったりするのです。
その事を予知したのは、上行菩薩のお計らいによるものであろうと思って、この20余年
の間、妙法蓮華経の5字を広めることに努めてきました。この法門を弘通するとなると、
法華経の法師品に「この経を信受するものは、如来の在世中でさえも怨み嫉みが多い。
まして滅後には、世間全般に怨みが多くて信じることが困難である。」と言われている
通り、三類の怨敵に苦しめられるわけですが、その第一の怨敵「俗衆増上慢」と
は国主ならびに郡・郷等の地頭・領家およびそれに従う人民です。この連中が、第二の
怨敵「道門増上慢」や第三の怨敵「僣聖増上慢」といった僧侶たちの訴えるところに
随って、法華経の行者を、あるいは悪口をあびせ、あるいは罵倒し、あるいは打ったり
切ったりするのです。
私たちの故郷、安房の国・東条の郷は、地図の上では辺境の国ですが、内容からいえ
ば日本国の中心のような所です。なぜなら、天照太神がお住みになっていらっしゃる所
だからです。天照太神は、昔は伊勢の国に住んでおいでになったのですが、国王が八幡
や加茂の神々ばかりを尊崇して、天照太神への御帰依が浅かったものですから、太神は
不快にお思いになっていらっしゃった――その時、源の右大将頼朝という人が、ご起請
文を記して会加の小大夫に命令して天照太神を奉戴し、伊勢の外宮に安置なさったも
のですから、太神の御心にかなったのでしょう、頼朝は日本国を統治する将軍となりま
した。その頼朝が、安房の国・東条の郡を天照太神の御栖とお定めになったのです。
だから、この太神は、今は伊勢の国にはおいでにならないで、東条の郷におすみになっ
ていらっしゃるはずです。たとえば、八幡大菩薩は、昔は筑前の太宰府においでになり
ましたが、中ごろは山城の国・男山に移られ、今は相模の国・鎌倉の鶴が岡に住んでい
らっしゃいます。天照太神も同様なのです。
私は、世界の中で、日本国・安房の国・東条の郡ではじめて妙法蓮華経の5字に集約
された正法を弘通しはじめました。それで念仏信者の地頭が敵となりました。彼の勢力
はすでに半ばは減退したのですが、まだ半分ほどの力が残っています。(つづく)
された正法を弘通しはじめました。それで念仏信者の地頭が敵となりました。彼の勢力
はすでに半ばは減退したのですが、まだ半分ほどの力が残っています。(つづく)
【語註】
※1 会加の小大夫:伊勢神宮の神官。養和元年(1181)、源頼朝の平家討伐祈祷の
ために鎌倉に招かれた渡会【わたらい】光倫。寿永3年(1184)、頼朝は祈願
成就にあたって、伊勢の内宮に武蔵国飯倉御厨【みくりや】を、また外宮に安
房国東条御厨を寄進したが、光倫はその後者に関与した。
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