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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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ブッダの生涯 その12(最終章)


ブッダを知りませんか?


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 慣れ親しんだヴェーサーリーを、後ろ髪をひかれる思いで後にしたブッダは、教えを説きながら、パンダ村、ハッティ村、アンバ村、ジャンブ村、ボーガ市を経て、パーヴァー村にたどり着き、当地の鍛冶工であるチュンダのマンゴー林に留まった。マンゴー林なんか持ってるくらいだからチュンダはかなり裕福だったんだろうね。鍛冶工と言っても金銀細工をする職人も鍛冶工だし、いわゆる村の鍛冶屋みたいな鍬や鋤を作っているのも鍛冶工だけど、いずれにしても金属を加工する人はインドのカースト社会では最下層のシュードラで、卑しい身分とされていたそうだ。実は僕のご先祖さんは羽咋の滝谷の出身で屋号を「かんじや」と言うんだけど、これは鍛冶屋ということで、僕はひょっとしたらチュンダの生まれ変わりかも知れない。(ほな、アホな)

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チュンダの村に残るストゥーパの跡

 チュンダはブッダが自分のマンゴー林に滞在していると聞き、飛んできて挨拶し、ブッダの法話を聴いた。感激したチュンダは明朝、修行僧とともにブッダを食事に招待したいと申し出て、ブッダはこれを承認された。はりきったチュンダはたくさんのご馳走を作り、ブッダの一行を迎えた。ところが、特別に出されたキノコ料理を見たブッダが、「そのキノコ料理は私が食べよう。キノコ以外の料理をすべての弟子たちに与えなさい」と言ったというんだ。なんだ、ブッダは美味しいキノコ料理を独り占めしたんだ、なんて思っちゃいけないよ。これにはちゃんと理由があるんだけど、それはもうちょっと後でね。

 「さて尊師が鍛冶工のチュンダの食物を食べられたとき、激しい病いが起こり、赤い血がほとばしり出る。死に至らんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、よく気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。
 さて尊師は若き人アーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーに赴こう」と。
「かしこまりました」と、若き人アーナンダは答えた。


 ブッダが食べたのは毒キノコだったんだね。「赤い血がほとばしり」というリアルな表現をしているけど、そうとう激しい下痢と下血があったようだ。もちろんチュンダに悪意があったわけではなく、間違って毒キノコが混入してしまったんだと思うけど、腑に落ちない点が一つある。それはブッダが毒キノコだと判っていたんだろうということ。だって、キノコ料理を独り占めして、弟子達には食べさせていないもんね。でも、やっぱおかしいな~。毒キノコと判っていたら、食べなきゃいいもんね。経典編集者はブッダに神通力があったから、最初から毒キノコだと判っていて、それでも敢えて食べたみたいに書いてある。でも、実際には知らずにブッダが最初に箸をつけ、一口食べて毒キノコだと判ったんだと思う。だから、弟子達には食べさせないようにして、なおかつチュンダには残ったキノコ料理を穴に埋めるように命じている。

 実はこの毒キノコと訳されている物の原語はスーカラマッダヴァ。これ直訳すると「柔らかい豚肉」なんだ。じゃ、なんで毒キノコと訳してるのか、ってことだ。ブッダが豚肉を食べるはずがないという先入観だろうね。なかにはトリュフみたいに豚が好むキノコのことじゃないか、という苦しい解釈をしている学者さんもいるみたいだけどね。ブッダは菜食主義者で肉は食べなかったか?答えはNOだ。供養された食事は断ってはいけない。だから、ブッダに供養するために殺された牛や豚でない限り、ブッダは断わることなく、食べていたんだ。だから、僕はここは素直に豚肉でいいと思う。しっかり調理してなくて、サルモネラ菌でもいたんじゃないかな。そうすれば、チフスということも考えられる。

 出血の止まらないブッダの体力は、みるみるうちに落ちてゆく。臨終の地クシナーラーへの道は最後の力を振り絞っての苦しい旅となった。広大なインドの野を、太陽の光にあぶられ、土埃を頭から浴び、身をひきずるように歩んでいくブッダの姿は、凄惨である。

 ある町では道の脇に立ち止まり、大樹のもとに身を寄せると、
「さあ、アーナンダよ。お前はわたしのために外衣を四つ折りにして敷いてくれ。わたしは疲れた。わたしは坐りたい。」と言って、崩れるように倒れ込んでしまう。
「さあ、アーナンダよ。わたしに水をもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」
 こう言われたアーナンダは「たった今、500台の車が通りすぎたばかりで、河の水は濁っていてとても飲めません」と答えたのだが、ブッダは再三にわたり水が飲みたいと要求する。まるで駄々っ子のようだ。アーナンダは仕方なく水を汲みに行くのだが、不思議なことにすでに水は清く澄んでいた。ブッダはアーナンダが汲んできた水を美味しそうに飲み、口の渇きをいやした。
 「末期の水」って、知ってる?脱脂綿やガーゼを割り箸の先につけて、水を含ませて、亡くなった人の口を潤してあげることだけど、ブッダのこの故事がもとになってるんだよ。

 ブッダがクシナーラーに間近い道の途中の樹の下で休んでいると、マッラ族の人ブックサという者が来て、ブッダに法話を求めた。この人はアーラーラ・カーラーマの弟子だ。アーラーラ・カーラーマって覚えてる?出家したシッダールタが最初に教えを求めた仙人だったよね。ブックサはブッダの教えに感銘し、終生帰依する在俗信者となることを誓い、ブッダに2枚の金色に輝く絹衣を差し上げた。ブッダはその1枚をアーナンダにあげちゃう。

 ブックサが去ってから、アーナンダが金色の衣をブッダに着せかけたところ、その衣は輝きを失ったように見えたというんだ。と言うことは、ブッダの身体のほうが輝いて見えたということで、ブッダの身体は金色であると考えられるようになったんだ。
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カクッター河
 「さてアーナンダよ。今夜最後の更【こう】にクシナーラーのウパヴァッタナにあるマッラ族の沙羅【さら】林の中で二本並んだサーラ樹の間で修行完成者の完全な死が起こるであろう。
 さあ、アーナンダよ。われわれはカクッター河へ行こう。
 
自らの死を予告したブッダは、カクッター河で沐浴し、水を飲んで、流れを渡った。マンゴー林に到着すると、チュンダカに外衣を4つに折って敷いてくれるように頼んだ。チュンダカはキノコ料理を供養したチュンダとは別人だよ、ややこしいね。チュンダカの名前でチュンダを思い出したのか、ブッダはアーナンダに、
「おそらく人々は鍛冶屋のチュンダに向かって、お前が出した供養のキノコ料理を食べてブッダがこの世を去ったのだと非難し、チュンダを苦しめるであろう。
 アーナンダよ、最後の供養をささげたチュンダには大いなる功徳ありと師より聞いていると、お前の口からチュンダに言ってくれ。わたしの生涯で他の供養の食物よりはるかに優れた最上の供養の食物が二つあった。その二つとはスジャータの供養とチュンダの供養であったと。そうすればチュンダの悔いる心は晴れるであろう。」と告げた。

 「与える者には、功徳が増す。身心を制する者には、怨みのつもることがない。善き人は悪事を捨てる。その人は、情熱と怒りと迷妄とを滅して、束縛が解きほごされた」と。

 後にアーナンダからブッダの言葉を聞いたチュンダは、その優しい思いやりに涙を流したに違いない。

 
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 クシナーラーのウパヴァッタナに到着したブッダは、アーナンダにこう言った。

 「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ、わたしは疲れた。横になりたい」と。

 ブッダはアーナンダの用意した床に、右脇を下にして、右足の上に左足を重ね、衰弱した身体を横たえた。現在その地には大涅槃堂が建っている。1956年ブッダ生誕2500年記念としてミャンマー僧によって建立されたそうだ。丸窓のついたかまぼこみたいな形の建物が大涅槃堂だけど、 建物の両側に立ってるのがサーラ樹。サーラ樹が2本並んでるんで沙羅双樹【さらそじゅう】なんだけど、古典の時間に習った『平家物語』の冒頭部分「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」で有名だよね。


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 日本で沙羅の木と言ってるのはナツツバキのこと。インドのサーラ樹はフタバガキ科の熱帯樹で、高さ30メートルを超す大木になり、春に白い花を咲かせる。ソチオリンピックで残念ながらメダルを取れなかった高梨沙羅ちゃんの沙羅はどっちなんかな~。 ブッダが横たわった時、サーラ樹は突然花が咲きだして満開になり、ブッダを供養するためにブッダの身体に降り注いだそうだ。


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 写真は大涅槃堂内の涅槃仏。1876年にアレキサンダーカニンガムが近くのヒラニヤヴァティー河の河床から発掘したもので、全長6,1メートルもある。5世紀のグプタ朝時代に造られたもので、赤砂岩製なんでもともとは赤色をしてたんだけど、仏滅2,500年の大祭の時、ミャンマーの仏教徒により金箔が施され現在の色となったそうだ。経典に書かれている通り、北を枕にして横たわっておられるけど、これを「頭北面西」という。頭を北にして右脇を下にすれば、自然に顔は西を向くことになるけど、インドではこれが最上の横臥法と考えられていたそうだ。人が亡くなったら北枕にする習俗があるけど、これに由来してるんだよ。みんな、まさか北を枕にして寝てないだろうね。それ、死んだ時だけだよ。

 アーナンダは悲しみに襲われ、戸の横木によりかかって号泣する。アーナンダがそばにいないことに気づいたブッダは、修行僧に呼びに行かせた。横たわるブッダの傍らに力なく立ったアーナンダにブッダは優しく語りかける。

 「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、ーすべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ブッダ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう

 25年の長きにわたりブッダに仕えてきたアーナンダへの労い言葉とともに、お前もやがて悟りを開くだろうと励ましの言葉をかけるブッダ。弟子の中ではまだ悟りを得ていない人々の側にいたアーナンダは、ブッダのこの言葉にひれ伏した。

 ブッダはアーナンダに、これからクシナーラーの町に行って、今夜半、ブッダが亡くなると伝えよと命じた。アーナンダが一人の弟子を連れて町へ行き、ブッダの言葉を告げると、マッラ族の人々は驚き、慌てふためいてサーラ樹の林に駆けつけたんだけど、その中にスバッタという名の遍歴行者がいた。この時、120歳だったというから驚きだ。このスバッタがアーナンダに近づいてきて言った。
 「アーナンダよ、私には疑いがあります。しかし、私は自分のもっている疑いをブッダが除くことができると信じています。どうか、ブッダに会わせて下さい。」
 ブッダは臨終の床にある。それにスバッタの態度はいささか強引だ。カチンときたアーナンダは、ブッダを悩ませてはいけないと言って、願い出を拒否した。スバッタは3回面会を求め、3回ともアーナンダは断った。しかし、そのやりとりを聞いていたブッダはこう言った。

 「 やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッタを拒絶するな。スバッタが修行を続けてきた者(=ブッダ)に会えるようにしてやれ、スバッタがわたしにたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、わたしを悩まそうとしてたずねるのではないであろう。かれがわたしにたずねたことは、わたしは何でも説明するであろう」と。

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 僕はこの時のブッダと宮沢賢治がだぶってしまう。賢治は昭和8年(1993)9月21日に37歳で亡くなったんだけど、その2日前の19日は3日間続いた稗貫の神社の祭礼の最終日だった。その夜、神輿を拝みたいと、店先から見物。ところが冷気にあたっため呼吸困難におちいり、様態が急変する。亡くなる前日の夜、一人の農民が肥料相談にやって来た。賢治は高熱で喘いでいる。家の者は面会を断ろうとしたんだけど、賢治は「大事なことだから」と、夜遅くまで相談にのっていたそうだ。ブッダも賢治も死の直前まで、伝道者であり続けたんだ。僕もそうなりたいけど、まあ無理かな。

 ところで、スバッタの質問はつまらないものだった。仏弟子とは違う6名の高名な修行者の名をあげ、彼らは本当に真理をわかっているのかと、聞いたんだ。この質問は当然ブッダにも向けられていたんだろうね。あんた、本当に真理が分かってんの?死の床にあるブッダへの質問としてはあまりにも底意地が悪い。身体が衰弱しきっているブッダを相手に論争をしかけようとしたんだね。この質問に対してブッダは「スバッタよ、そのように言ってはいけない」と言い、直接質問に答えず、こう語った。
 
 「スバッタよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。
    スバッタよ。わたしは出家してから五十年余となった。
  正理と法の領域のみを歩んで来た。
  これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない


 ブッダにとって形而上の問題はどうでもよいことだった。人生の問題を解決することこそ第一であり、苦を滅して安楽の境地に向かうことがブッダの教えの核心であることを、スバッタにも示した。スバッタはその場でブッダに帰依し、ブッダ最後の弟子となった。

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 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と

 これがブッダ最後の言葉となり、ブッダは安らかに息をひきとった。ブッダ80歳。雨季が終わってから3カ月程後ということなので、10月か11月のことだったと考えられるが、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日、日本では2月15日とされている。

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ブッダが火葬された地に建つ荼毘塚

 サーラ樹の林では、ブッダの遺骸を囲み、まだ悟りにいたっていない人々は、身体をよじって大声で泣き叫んだ。しかし、欲を離れ、悟りに至った者は、正しき智慧でよく耐え忍び、「諸行は無常なり、いかでか滅せざることあらん」と繰り返し唱えていたそうだ。
 アーナンダは駆けつけた高弟アヌルッダと、東の空に輝ける太陽の光が満ち渡るまで、法話をして過ごした。
 ブッダの遺体は7日間手厚く供養されたのち、マッラ族の信者の手により静かに火葬され、やがて雨が降り注ぐと、そこには真っ白な骨のみが残されたそうだ。今、その場所には荼毘【だび】塚が建っている。荼毘って、火葬することだよ。

 前にもお話したけど、ブッダの遺骨は8つに分骨され、仏舎利としてそれぞれの国の王によって持ち帰られ、マガダ国、ヴェーサーリー、クシナーラー、そしてブッダの故郷カピラヴァッツなどにはストゥーパが建立された。

 ブッダがともした法の灯火は、それから2500年間、消えることなく輝き続け、多くの迷える人々の前途を照らしてきた。ブッダはいつでも迷える人々の傍らにいてくれた。でも、最近そのブッダの姿が見えなくなって来ている。ブッダを知りませんか?

 「ブッダの生涯」は今回が最終章です。次回からは「ブッダの弟子たち」をおおくりします、(つづく)


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【 2014/03/27 17:08 】

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