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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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ブッダの弟子たち その3


ブッダを知りませんか?

マハーカッサパ(大迦葉【だいかしょう】、 摩訶迦葉【まかかしょう】)

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中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』

 マハーカッサパはマガダ国の都ラージャガハ近くのマハーハーダラ村のバラモンであるニグローダ・ゴーパの子で、ピッパラ樹(=菩提樹)の下で生まれたので、ピッパリと名づけられた。カッサパはブッダの弟子になった時から名乗った名前なんだけど、カッサパ3兄弟と区別してマハーカッサパと呼ばれている。カッサパ3兄弟って、覚えてる?ブッダが伝道を開始してすぐの頃に、ブッダと神通力を争って負けた結果、1000人の弟子を率いてブッダの教団に加わったウルヴェーラー・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパのの3兄弟だ。マハーカッサパはブッダ亡きあとの仏教教団の中心となった人物なんで、モッガラーナと同じく“偉大な”という意味のマハーという形容詞がつけられている。

 マハーカッサパはもろもろの弟子の中で、頭陀【ずだ】の点において最も優れているので、「頭陀第一」と讃えられている。「頭陀」はパーリ語の“ドゥータ”を音訳したもので、「ふるい落とす」とか「はらい除く」という意味だ。煩悩の垢を払い落とし、衣食住についての貪りや欲望をもたず、ひたすらに仏道を修行することなんだけど、マハーカッサパは13頭陀を実践していたんだって。13頭陀というのは①糞掃衣【ふんぞうえ】(汚いボロ切れでつくった衣)と②三衣(大衣・上衣・中衣)だけを身につけ、③托鉢【たくはつ】によって食を得、④家ごとに托鉢し、⑤1日1食をとり、⑥森林や、⑨樹の下や、⑩野外、⑪墓地などに住み、⑫施されるままの敷物を使い、⑬常に坐るだけで横にならないという、ブッダ時代の出家修行者の衣食住のあるべきさまのことだ。僕なんかお恥ずかしい次第で、どれ一つ守れていない。やっぱ、なまぐさ坊主だな~。


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 禅宗の坊さんや、四国巡礼のお遍路さんが首や肩から下げているショルダーバックのような袋を「頭陀袋」というんだけど、知ってる?僕たち日蓮宗でも寒修行する時なんかに使うけど、結構便利なもんだよ。13頭陀の中でも特に出家修行者が乞食【こつじき】托鉢して歩くことを指して頭陀と呼ぶ場合が多んで、頭陀袋という名前になったみたいだ。昔は死んだ人の首にも掛けてたみたいだけど、最近はもうまったく見なくなってしまった。昔は手甲・脚絆・頭陀袋と旅支度をさせて死者をあの世に送ったんだけど、あれって江戸時代の旅姿だから時代にあわなくて止めてしまったんだね。

 話がそれてしまったけど、頭陀の生活は仏教教団が誕生した頃には沙門として当然の習慣だった。しかし、教団が大きくなり、国王や大商人から僧院の寄進を受けるようになると、僧院に定住する生活が一般化し、信者から寄進された綺麗な衣をまとい、招かれて信者の家で食事の供養を受けることも、ごく普通になってしまった。しかし、マハーカッサパはそうした変化を好まず、相変わらずぼろ衣を着て、前と同じように林野に住み、出家者本来の頭陀行を頑なに守り続けた。マハーカッサパは自分の生々しい頭陀行の体験を次のように思い起こしている。

 わたしは坐臥所から下って、托鉢のために都市に入って行った。食事をしている一人の癩【らい】病人に近づいて、かれの側【かたわら】に恭しく立った。
 かれは、腐った手で、一握りの飯を捧げてくれた。かれが一握りの飯を鉢に投げ入れてくれるときに、かれの指もまたち切れて、そこに落ちた。
 壁の下のところで、わたしはその一握りの飯を食べた。それを食べているときにも、食べおわったときにも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった。
(『テーラガーター』)  

 癩病はハンセン病のことだね。指や鼻が崩れて欠けてしまうという症状から、古来から世界中で不治の病、業病とされ差別の対象となった病気で、聖書にも出てくる。ガンジス川の沐浴で有名なインドのヴァーラナシーでは、今でも多くのハンセン病の乞食に出会う。今でこそハンセン病は感染力が非常に弱いことが分かっているけど、ブッダの時代はそうではない。それなのにマハーカッサパは嫌悪の念は存在しなかったと言っている。僕達にこんなことが出来るだろうか?差別してはいけないと頭でわかっていても、嫌悪せずに一人の人間として受け入れることが果たしてできるだろうか?

 マハーカッサパがピッパリという名で呼ばれていた頃の話をしよう。バラモンの子として生まれたピッパリは8歳で入門式を受け、バラモンとして必用なすべての教養をあっという間に身につけてしまった。ピッパリはさらに出家して専門的に道を求めようと思うようになった。家の後継ぎが絶えてしまうことを恐れた両親は、嫁さんをもらうように強く勧めたんだけど、ピッパリは独身の清浄な生活を送りたいと言って両親の勧めを拒絶した。

 しかし、両親のたっての願いを断り切れなくなったピッパリは、工匠に美しい金の女人像を造らせ、これと同じ美しさをもつ女性がいるなら結婚してもいいと、とうてい実現するはずもないような条件を出した。困った両親は8人のバラモンにこのような女性を見つけ出してくれるように頼んだ。彼らがマッダ国のサーガラ川岸の沐浴場で像を載せた台車を置いて休んでいたところ、バッダー・カピラーニーの乳母が、その像を見て彼女と見間違えたんだって。バッダー・カピラーニーはヴェーサリーの郊外のカピラカという村に住むカピラという名のバラモンの娘で、黄金の女性像とうり二つの美しい女性だったそうだ。こうなったらピッパリも拒否することが出来ず、とんとん拍子で縁談がまとまっていく。

 そこで、ピッパリは浮浪者の格好で彼女の家に確かめに行った。カピラの家は誰であれ食を乞う者が来れば喜んで布施をする家風だったので、ピッパリが訪ねるとバッダー自身が食べ物を持って出て来た。ピッパリは自分の身分を明かして事の次第を説明し、たとえ結婚しても欲望の生活をするつもりはないと告白すると、バッダーもこう答えた。
 
 「あなたのおっしゃることを聞いて、嬉しく思います。私も思いは同じです。今回結婚を承諾したのは、親たちを安心させるためです」

 こうして互いの意志を確認して夫婦となった二人は、互いに身体を触れあうこともなかったんだって。あ~、もったいない、というか、よく我慢できたよね、だって絶世の美女と同じ家に住んでるんだもんね。僕だったら、出家するのを止めるね。(笑)そんな生活を12年も続けたそうだ。その間、「孫はまだか?」という両親の願いを、苦しい思いで聞く日々もあっただろうね。でも、二人の決心が鈍ることはなかった。両親もすでに世を去ったある日、二人は髪を剃り、粗末な衣に着替え、手には1個の鉢だけを持って、引き止める人々の手を振り切って家を出た。初めは二人仲良く歩いていたんだけど、ある四つ辻まで来た時、私情が修行の妨げにならないように、バッダーとピッパリは右と左に別れた。

 その頃、マガダ国のラージャガハの竹林精舎にいたブッダは、ピッパリ夫婦が二手に別れて修行の道を歩んでいることを知った。そこで、ブッダは弟子たちにも告げず竹林精舎を出て、ラージャガハとナーダダ村の中間のところで、ニグローダの樹の下に坐り瞑想に入られた。そこを通りかかったピッパリは、一目見ただけで自分が求めている師であるとわかり、ただちにブッダの弟子となった。ピッパリは名前をカッサパと改め竹林精舎に入り、8日目に悟りを開いたと言われている。ブッダ成道3年目のことらしい。カッサパと別れた妻も後にブッダの弟子となってるよ。

 ブッダがラージャガハから出て托鉢し終わっての帰り道、とある樹の下に坐ろうとした時、カッサパは自分の着ていた大衣を脱いで4つにたたんで坐を設けた。その上に坐ったブッダは、その衣が柔らかであることを称えた。そこで、カッサパはその衣をブッダに差し上げ、自分はブッダが着古した粗末な布で出来た糞掃衣を身にまとった。

 それ以来、カッサパは汚れた粗衣を常に身にまとっていたので、ほかの修行者が彼を軽んじたことがあった。それはブッダがコーサラ国の都シュラヴァスティーの祇園精舎に滞在していた時のことである。泥や塵にまみれた衣をつけたカッサパが説法中のブッダに近づいた。その場にい居合わせた修行僧たちは、このさまを見て、
 「あれは、いったい誰だ。ボロを身にまとい、威儀もなにもあったものじゃないではないか」
と軽蔑した。
 このことを知ったブッダは、説法を中止して、カッサパを呼んで言った。
 「よく来た。カッサパよ、私の座席を半分あけるから、ここに坐りなさい。いったい誰が先に出家したのか、汝か私か?」
 カッサパは答えた。
 「ブッダは私の師であられます。私はブッダの弟子でございます」
 ブッダはさらに言った。
 「その通りである。カッサパよ、私は師であり、汝は私の弟子である。だから、いま、ここに来て坐りなさい」 

 これを聞いた弟子たちは恐れおののいて身の毛を逆立て、「ボロをまとったカッサパがブッダの弟子であるのに、ブッダに誘われてその坐につくとは」と言いあった。ブッダはこれらの修行者たちを戒め、カッサパこそブッダに等しい境地に達したものであることを説き示したんだね。

 当時の修行者は、一般に汚いボロ切れを縫い合わせた糞掃衣をまとっており、ブッダもカッサパと衣を交換するまで、そのような姿だった。しかし、仏教教団が発展するにつれて、在家の信者達からブッダに清潔で上質の衣が寄進されるようになり、修行者たちも次第に綺麗な衣を着用するようになっていく。ボロの衣をまとって修行を行うものは、表面的には尊敬されても、内心は軽蔑されるようになっていったようだ。

 日本でも坊さんの地位を表すのに、衣や袈裟の色が決められている。僕はいま紫の衣に緋色の袈裟をつけているけど、坊さんに位があること自体おかしい。でも、僕が墨染めの衣に木欄色の袈裟をつけたら、やっぱ変な目でみられるだろう。しかし、カッサパは生涯、糞掃衣をつらぬいた。だからこそ、「頭陀第一」と呼ばれるんだね。

 「衣鉢を継ぐ」という言葉があるけど、ブッダの衣を譲り受けたマハーカッサパは、まさしくブッダの衣鉢を継いで、ブッダ亡き後の教団の指導者となった。 サーリプッタもモッガラーナもブッダが亡くなる前に亡くなってるもんね。

 クシナガラでブッダが亡くなった後、弟子たちの悲しみの中に火葬の準備が進み、薪に火がつけられた。しかし、火はつかず、誰がやっても駄目だったそうだ。ところが、知らせを聞いて駆けつけてきたマハーカッサパが試みると、たちどころに火は燃え上がり、無事火葬することができたと言われている。現在でもヒンドゥー教の習慣では、父親の火葬の火を点ずるのは後継ぎの息子となっており、このエピソードはマハーカッサパがブッダの後継ぎと考えられていたことを物語っている。

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   ラジギールの七葉窟

 ブッダが亡くなった時、スバッタ(ブッダ最後の弟子となったスバッタとは別人)という心ない老修行者が次のような暴言を吐いた。
 「我々は嘆き悲しむ必用はない。我々はあの偉大な修行者から解放された。“これはしてもいい”、“これはしてはならない”と我々は強制されていたが、今からは好きなように振る舞うことができるのだ」
 本当にこんな暴言を吐く人間がいたかどうかは分からないが、仏教教団が成立して45年も経つと、教団内部にブッダの決めた戒律を自由を束縛する外圧と感じていた人間がいても不思議ではない。教団の危機を感じたマハーカッサパはラージャガハ西北方のヴェーバーラ山腹にある七葉窟【しちようくつ】で500人の修行者を集めて、仏典結集【ぶってんけつじゅう】を開催する。ブッダ入滅3カ月後のこととされている。仏典結集は現代風に言えば経典編纂委員会だが、経典についてはアーナンダが、戒律についてはウパーリが中心になって、ブッダの説いた正しい経典と戒律が決定されたんだけど、詳しいことはアーナンダとウパーリのところで話そう。

 マハーカッサパはアーナンダを法の後継者とし、自らはビハール州の一番南のはずれにある鶏足山で頭陀行を行いつつ没したと言われる。玄奘三蔵の『大唐西域記』によれば、仏典結集から20年後のことであったそうだ。(つづく)


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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2014/07/02 12:27 】

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