FC2ブログ

なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

カテゴリ

最新記事

fc2カウンター

Facebook

月別アーカイブ

最新トラックバック

最新コメント

リンク

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

ブッダの弟子たち その4

ブッダを知りませんか?

アーナンダ(阿難【あなん】、阿難陀【あなんだ】)

IMG_NEW_0004_convert_20140704171904.jpg 
中村晋也作『薬師寺・釈迦十大弟子』

 アーナンダはブッダの従兄弟にあたる。ブッダの父スッドーダナ王の弟ドートーダナの子で、悪名高いダイバダッタの弟とされている(『大智度論』)。デーヴァダッタについては、またいずれ紹介するね。アーナンダとナンダと混同する人がいるけど、ナンダはブッダの異母弟だよ。

 ちなみにスッドーダナ王の兄弟はスッコーダナ、ドートーダナ、アミドーダナと、全員が名前の最後にOdanaがついてる。スッドーダナ王は浄飯王【じょうぼんのう】と漢訳されてるけど、Odanaは米飯のことなんだ。王さまの一族の名前にお米が入っているということは、ブッダの属していたシャカ族はお米を作って食べていたということだね。

 アーナンダはブッダがブダガヤで悟りを開いた日の夜に生まれたといわれている。お父さんのドートーダナがスッドーダナ王のもとに使者を送り、アーナンダの誕生を知らせた時、スッドーダナ王が非常に喜んだので、“歓喜”という意味のアーナンダと名づけられたんだって。なんだ、そうなんだ。(笑)ということは、アーナンダはブッダより35歳年下ということになる。

 
アーナンダは「ブッダの生涯」で何度も登場してきたお弟子さんだけど、ブッダの晩年から亡くなるまでの25年の間、片時もブッダのそばを離れることなく誠心につかえ、その教えを最も多く記憶していたということから、「多聞第一」とされている。ブッダが亡くなった時、25年間を振り返って、アーナンダはその心境を次のように詠んでいる。
 
 「25年の間、わたしは慈愛にあふれた身体の行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れないように。
  25年の間、わたしは慈愛にあふれたことばの行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れれないように。
  25年の間、わたしは慈愛にあふれたこころの行いによって尊き師のおそばに仕えた。ー影が身体から離れないように。
  ブッダが経行【きんひん】
修行の合間、疲れや眠けをとるために一定の場所をゆっくり歩くこと)されているとき、わたしはその後からつき従って経行した。また、ブッダが教えを説かれているとき、わたしに智慧が生じた。わたしは、まだなすべきことのある身であり、学習する者であり、まだ心の完成に達しない者であった。それなのに、わたくしを慈しみたもうた師は、円【まど】かな安らぎに入られた〔亡くなられた〕。」(『テーラガーター』)

 この詩句の最後のほうでアーナンダ自身が語っているように、25年間も師の傍らにあって真心をもって仕えたアーナンダであったが、ブッダの生存中にはついに悟りを開くことができなかった。マハーカッサパなんかブッダの弟子になって8日目に悟りを開いたのに、25年もの間ブッダの教えを聞いていながら、なんで?と、不思議に思うよね。このことについては、いくつかの理由があげられている。たとえば、アーナンダは生まれつき優しい性格で、その反面心の弱さを持っていたからだと。また、長い間ブッダと生活をともにして余りにも多くの教えを聞きすぎて、聞くことだけで満足していたからだと。まあ、どれも間違いではないだろうけど、一番の問題はアーナンダはブッダを父のように敬愛しており、ブッダの人格そのものによりかかり過ぎていたからじゃないかな。多くの教えを聞いてはいても、彼はそれを自分自身の問題として考えなかったんだろう。なにせ、ブッダが生存していれば、何事もその偉大な人格にたよれば解決できちゃうからね。まあ、要するにブッダに頼りすぎていたわけだ。 

 法華経』の「如来寿量品第十六」に「良医治子【ろういじし】」というたとえ話がでてくる。どんな話かというと、ある所に腕の立つベン・ケーシーのような医者がいた。これは古すぎて年金世代にしか分からんよね。(笑)じゃ、僕の名前によく似たホ・ジュンは?韓ドラは見ない。あっ、そう。じゃあ、ブラック・ジャック、赤ひげ、……、まあ誰でもいいや。とにかく名医がいて、彼には百人余りの子供がいた。ある時、この名医の留守中に子供たちが誤って毒薬を飲んで、苦しんでいた。そこへ帰った名医は薬を調合して子供たちに与えた。半数の子供たちは毒気が軽かったんで、父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちは薬も毒だと思って飲もうとしない。そこで名医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせたんだ。父の死を聞いた子供たちはもうびっくりしてしまい、嘆き悲しんだため、毒気も忘れて父親が残してくれた良薬を飲んで治すことができた、というお話。
 寿量品の偈頌【げじゅ】の部分である「自我偈」には次にのように説かれる。
 
  仏語は実にして虚しからず

  医の善き方便をもって 狂子【おうじ】を治せんが為の故に
  実には在れども而も死すというに 能く虚妄【こもう】を説くものなきが如く
  我も亦為れ世の父 諸の苦患【くげん】を救う者なり
  凡夫の顛倒【てんどう】せるを為て 実には在れども而も滅すと言う
  常に我を見るを以ての故に 而も憍恣【きょうし】の心を生じ
  放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん

 仏が語る言葉は真実であって、けっして虚妄ではないのです。
 すぐれた医者が、すばらしい方便をつかって、尋常ならざる精神状態におちいっている子供たちを治すために、ほんとはう生きているのに死んでしまったと言っても、それが嘘だと主張するひとはいないのと、まったく同じなのです。
 わたしもまた、世界全体の父親のよなう存在であって、さまざまな苦しみから、生きとし生けるものべてをす救う者なのです。
 あまり賢くない者たちが、あやまった見解をもっているのを察知して、ほんとうは生きているのに死んでしまったと言うのです。
 いつもわたしのすがたを目にしていると、どうしてもおごりの心を生じて、愛欲をはじめ、さまざまな欲望に身をゆだね、悪しき境遇に墜ちてしまうのです。

 ブッダの寿命は始まりも終わりもなく永遠で、空間的にも無限の存在であり、いつも、どこでも我々を見まもってくれている。でも、ブッダがいつも傍にいると、それに頼り切り怠け心が生じてしまうので、クシナガラの地で肉体としてのブッダはその生涯を終えた。でも、本当は今でも、生きているんだよ。そして、我々を救おうとしているんだよ。この永遠のブッダを「久遠実成本師釈迦牟尼仏【くおんじつじょうほんししゃかむにぶつ】」と言って、僕たち日蓮宗が信仰する対象となっている。法華経についてはまたいずれ詳しく話そうね。

 さて、話がそれちゃったけど、アーナンダがなかなか悟りを開けなかったのは、ブッダに頼りすぎて、自分自身の問題として法を求めようとしなかったからだ。だから、ブッダはアーナンダに「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と言い遺したんだ。人に頼らず、自分自身で生きて、解決していかなければならない。そんな決まり切ったことをアーナンダが自覚できたのは、ブッダが亡くなった後のことだった。

 
 前回、第1回仏典結集【ぶってんけつじゅう】の話を簡単にしたんだけど、今回はもう少し詳しくお話ししよう。ブッダはいまそこに悩みや苦しみを感じている人がいれば、その都度その人にふさわしい教えを説いた。これを対機説法【たいきせっぽう】と言っている。だから、初めから体系化されたブッダの教えというものがあったわけじゃないんだ。まあ、キリスト教のイエスさまも、イスラーム教のムハンマドも、そうなんだけど。イエスさまの伝道は4年、ムハンマドは22年、これに対してブッダの伝道は45年におよんでおり、その教えを聞いた人の数は膨大な数にのぼる。だから、出家や在家の弟子たちが、それぞれ自分の耳で聞いた教えだけをブッダの説であると主張すると、教団は分裂してしまうことにもなりかねない。おまけに、スバッタの暴言もあったため、教団の危機を感じたマハーカッサパがブッダ入滅の3カ月後にラージャガハの七葉窟【しちようくつ】に500人の修行者を集め、ブッダがさまざまな人に示された教えをまとめ、仏説として確定するための集会を開いた。これが仏典結集。

 この時、戒律をまとめ上げる責任者については「持律第一」と言われるウパーリとすることが異議なく決められた。問題となったのは、経典をまとめ上げる責任者を誰にするかということだ。ブッダの教えを一番たくさん聞いているのは、もちろんアーナンダだ。ところが、アーナンダはまだ悟りを開いていない。悟っていなくてもいいんじゃない、という意見もあったんだけど、厳格なマハーカッサパは集会への参加すら許さない。さあ、どうするアーナンダ。すでにアヌルッダからも忠告を受けていたアーナンダは、ここで一念発起。今までと違う責任感を強く感じたアーナンダは、ブッダの教えを自分自身のものとしてとらえなおし、心を集中して修行した結果、明日結集が開かれるという夜、頭を枕につけようとした瞬間についに悟りを開いたと言われる。

 こうして、タイムリミット寸前で悟りを開いたアーナンダは、翌朝晴れ晴れとした顔をして結集に参加し、「このように私は聞いた」とブッダの教えを参加者に披露し、多くの経典がまとめられていった。僕たちが読む法華経は「如是我聞 一時仏住 王舎城 耆闍崛山中 与大比丘衆 万二千人倶……」と始まるし、阿弥陀経も同じように「如是我聞 一時仏 在舍衛国 祇樹給孤独園 与大比丘衆 千二百五十人倶……」で始まる。多くの経典が「かくの如く我聞けり」で始まっているんだけど、この我ってアーナンダのことなんだよ。へえ、そうなんだ。 

莉丞。斐→繧「繧キ繝ァ繧ォ邇区浤-豁」髱「_convert_20140507063353 
アーナンダの墓と伝えられるヴェーサーリーのストゥーパ

 アーナンダの性格については、さっきもちょっと書いたけど、心があたかかく、気持ちが素直で、いわば「ええとこのぼんぼん」のような性格だった。それだけに情に弱いところがあり、頼まれるとなかなか嫌と言えなかったみたいだね。

 そんなアーナンダについて、有名な話をもうひとつしておこう。ブッダの養母のマハーパジャーパティが出家して比丘尼【びくに】(女性の出家修行者)になりたいとブッダに願い出た。ところが、ブッダは育てのお母さんの願いであるにもかかわらず、再三にわたってこれを断り続けた。女性差別じゃないか、って怒るかも知れないけれど、教団に女性が加わると、いろんな問題が起きそうだよね。そのへんのところが心配でブッダはなかなかウンと言わなかったんだけど、結局、アーナンダの取りなしによって認めることになった。
出家を望む女性たちは大喜びだったけど、第一結集の時にマハーカッサパ以下の長老たちに「要らんことして」と、こっぴどく叱られたそうだ。でも、これアーナンダの大きな功績の一つだよね。(つづく)



スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2014/07/09 16:30 】

ブッダの弟子たち  | コメント(0)  | トラックバック(0)  |
<< ブッダの弟子たち その5 | ホーム | ブッダの弟子たち その3 >>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 | ホーム |