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なまぐさ坊主の聖地巡礼

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ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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世界史のミラクルワールドーハンマーを振るう皇帝・ピョートル1世①

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ピョートル1世

 1672年5月30日、クレムリンの教会の鐘はロマノフ家2代目の皇帝アレクセイの妃が男児を出産したことを告げた。アレクセイは先妻との間に13人の子供をもうけたが、後継者たるべきフョードルとイヴァンはともに病身であった。「一流の」医者をかかえるツァーリ家とはいえ、当時赤子は、特に男の子は、なかなか丈夫に育たなかったのである。ピョートルと名づけられた新生児は、それに反して健康でたくましい子ではあったが、帝位継承の序列からはずれていた。

 アレクセイが1676年に亡くなった時、フョードルが順当に跡を継いだ。だが病身の彼は6年しかもたず、子供もなかった。次はイヴァンであったが、これは心身ともに健全ではなかった。この機会をとらえて攻勢に出たのがピョートルの母の出身であるナルィキシン一族であった。甘言で軍隊を動かし、総主教を味方につけて、10歳のピョートルを後継者の地位につけた。

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ソフィア

 もちろん正統なイヴァンを擁する一族も黙っていなかった。こうして宮廷内の権力抗争が始まった。その結果は、前代未聞の「2人のツァーリ」という奇妙な現象を生み出したが、古代に先例がある、ということで収められた。そして、イヴァンの実の姉ソフィアが摂政の地位に就いた。その後の7年間は、「2人のツァーリ」体制のもとで摂政ソフィアが寵臣ゴリツィンとともに実権を握ったのである。

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若きピョートルと遊戯連隊

 モスクワ郊外のプレオブラジェンスコエ村の館がピョートルと母の7年間の住まいであった。少年ピョートルは、ときおり宮廷儀礼にクレムリンに呼ばれるくらいで、ツァーリとしての正規の教育も受けず放任されていた。身体はますます大きく、心身ともにたくましさを増していた。ピョートルは身長2メートル13センチの大男であり、普通の人間と並ぶといつも首だけ高く、復活祭の挨拶をする際には背中が痛くなるほど身体を屈曲させなくてはならなかった。

 ピョートルは生来、身体を動かし、道具を作ったり操ったりするのが好きな子供だった。そんな彼を虜にしたのが、まず「戦争ごっこ」であった。遊びだけならば、誰しも子供の頃は夢中になった経験を持っている。だが、彼の遊びは徹底していた。ミニチュアの要塞をつくり、本物の鉄砲を用いて「軍事演習」をする、という本格的なものにまでなった。時には死傷者を出したこの演習に彼は将軍としてではなく、一兵卒として参加して現場を体験した。

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 ピョートルが長じるにつれ興味を抱いたもう一つのものは「航海」である。ロシアにも海はあるが、それはあまりに遠く、たいていのロシア人は海を見ることなど一生なかった。彼はプレオブラジェンスコエ村からほど遠くないところにあった「外国人村」に出入りして、オランダ人などと親しく交わった。西欧の人々がモスクワに持ち込んだ「文明」が彼を虜にするのに時間はかからなかった。ピョートルは湖に帆船を浮かべて、初めて「航海」を探検した。操縦技術や天体観測にも関心が向けられた。そしてオランダ語も学んだのである。

 1689年、ソフィアが失脚し、ピョートルが新たな統治者としてクレムリンに迎えられ、1694年に母親が死去すると親政を開始した。翌1695年はじめ、黒海への出口を求めてアゾフへ遠征が行われ、ピョートルも一砲兵下士官として従軍したが、アゾフ要塞包囲はオスマン海軍の活動によって妨げられ失敗に終わった。

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アゾフの陥落

 このため、ピョートルは海軍創設に着手し、ドン川畔のヴォロネジに造船所を建設してわずか5か月でガレー船と閉塞船27隻、そして平底川船約1300隻からなる艦隊を造らせた。これがロシア最初の海軍である。

 1696年に再度行われたアゾフ遠征はピョートル自らがガレー船に乗船して戦った。ロシア軍による水陸共同作戦によりアゾフは陥落し、ピョートルは海への出口を手に入れた。しかし、進出地点はまだ黒海内海のアゾフ海にとどまり、更なる進出にはオスマン帝国に再び勝利する必要性があったが、ロシア単独では不可能なためピョートルは軍事から外交政策に転換した。

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オランダで船大工とともに

 1697年、モスクワから総勢300人余りの大使節団が西欧諸国へ向けて出発した。この使節団にはピョートルは「ピョートル=ミハイロフ」という変名で、一随員として加わった。ロシアは、その後1年半以上にわたってツァーリ不在という変則的な事態をむかえたのである。しかも、モスクワの治安は決して安定していなかった。そうした危険を冒してまでピョートルを西欧へ駆り立てたものは何か。これは、つまるところロシアの後進性の自覚であり、西欧の先進的文明、とりわけ「海事」の習得にあった。

 まずプロイセン王国のケーニヒスベルクで砲術を習った。オランダにはいるとピョートルは単独行動をとり、アムステルダムにある東インド会社の造船所で一職工として働きハンマーをふるって造船技術を習得した。「モスクワのツァーリは、自分の手でドッグの人々と同じように一生懸命働いている」。こうして、「王様の船大工」「ハンマーを振るう王様」の評判ができあがった。それは決して一度きりの「政治家のパフォーマンス」ではなかった。4ヶ月間にわたって続けられたのである。さらに、博物館、病院、裁判所を見学し、ライデン大学では解剖学の講義を聴いた。

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造船所で所長から教わるピョートル

 更に造船学を学ぶためイギリスに渡り、ウィリアム3世に歓迎され、造船所で技師見習いとして働き、砲弾工場なども見学した。

 アムステルダム、ロンドンという、当時の海洋先進国の最も繁栄していた都市への訪問は、ピョートルに深い、生涯にわたって持続する影響を及ぼしたが、より直接的には大使節団は、約800人にのぼる各種の専門家・技術者を雇い、連れ帰った。それは料理人から海軍将校までさまざまな職種に及んでいる。奥は「二流以下の人々」であったが、ロシアの西欧化はかれらによって着実に進められたのである。

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ひげ狩りの風刺画

 ピョートルは外遊から帰国すると、その服装も西欧風に改めた。そして挨拶にきた貴族を捕まえては、そばに控えたこびとに羊毛用のハサミを持たせ、あごひげひげをちょん切ってしまった。ロシアの貴族は昔からあごひげを蓄えるのが習慣であったが、ピョートルは「新しいロシア」にはそぐわないと、貴族たちのあごひげを切ってしまったのである。

 あごひげには税金がかけられた。1705年の勅令では、あごひげの税額は身分によって異なった。貴族と官吏は60ルーブル、大商人は100ルーブル、一般商人は60ルーブル、家内奴隷は30ルーブル、農民は自分の村にいる時だけは無料だが、あごひげをつけて都市に出入りすれば、そのつど1ペーカずつとられた。

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ピョートルの抜いた歯 

 ピョートルは、みずからを優れた外科医、腕のよい歯科医であると自認しており、病にかかった側近は皇帝が手術道具を持って自分の前に現れることを怖れたという。抜歯の巧さはピョートルの最も自負するところで、その死後、小さい袋いっぱいに詰められた。サンクトペテルブルクのクンストカメラ(人文学博物館)では、皇帝が抜いた歯の“全コレクション”を見ることができる。そのなかの何本かは…なんと虫歯ではない。

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復元されたピョートルの建造した船

 西欧の技術を身につけたピョートルが一番好んだのは造船であった。彼は国務をほったらかしても、造船所へ行ってハンマーを振るうことをかかさず、1日のうちの2時間はペテルブルク造船所で過ごした。

 ピョートルは朝4時に起き、約30分部屋の中を歩き回る。それから秘書を呼んで仕事を命ずる。6時に朝食がすむと、外出する。馬か二輪馬車で、天気の良い時には歩いて行く。行く先は元老院か官庁、もしくは工場である。10時になると帰宅し、バターパンを肴にウォッカを1杯ひっかけて、2時間ほど眠る。昼食後、オランダ語の新聞を読み、必要な箇所を鉛筆でチェックしたり、ノートする。そして4時になると外出して、造船所へまわる。

 生まれつき膂力が強かったが、常に斧やハンマーを振るっていたために、銀の皿をくるくる巻いて管にできるほどの怪力の持ち主となったそうだ。(つづく)


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【 2020/07/24 05:26 】

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世界史のミラクルワールドー皇太子を殴り殺した皇帝・イヴァン4世

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イヴァン4世

 1530年8月25日、イヴァン4世はモスクワ大公である父ヴァシーリー3世と母エレナ=グリンスカヤとの間に誕生した。なかなか後継に恵まれなかった大公にとっては待望の子だった。

 しかし、イヴァンは「呪われた子」と呼ばれることになる。それは、ヴァシーリー3世が長年連れ添った不妊の先妻を追放し、18歳のエレナを妻に迎えたからだ。正教会の猛反対を押し切ってエレナと結婚したことから、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。エレナは魔術によって懐妊したなどという噂も流れた。

 そして彼が3歳の時に父ヴァシーリー3世が、8歳の時には母エレナがこの世を去りました。わずか8歳の少年イヴァンは貴族たちの権力争いに巻き込まれ、その心に暗い影を落とします。父亡きあとは母エレナがイヴァンの摂政を行なっていましたが、彼女の死後は名門シューイスキー家とベーリスキー家が指導者争いをしていた。

 心細さと不安定さからか、イヴァンは成長するにつれ犬や猫を虐待死させたり、異教徒の旅芸人らと騒いで遊ぶようになる。この頃から彼の残虐性が芽生え始めた。


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イヴァン3世

 1547年1月16日、それまで国政では無視されていたイヴァン4世が、史上初めて「ツァーリ」として戴冠し、親政を開始した。ツァーリは「カエサル」のスラヴ語形で、皇帝を意味する。これは祖父のイヴァン3世が一時称したことがあるが、ツァーリとして戴冠式を行って正式な皇帝号としたのはイヴァン4世からである。国内では大貴族(ボヤール)の力を抑え、中央集権的な政治体制を作り上げ、農民の移動を厳しく取り締まる農奴制の強化などを徹底し、ツァーリズム政策を推し進めた。

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イヴァン4世とオプリーチニキ

 イヴァン4世はツァーリの絶対的権力を行使する手段としてオプリーチニナ(「別個に設けられた財産」の意味)という親衛隊を組織、貴族の子弟を皇帝に忠実な隊員オプリーチニキとして特権を与え、反対する大貴族をテロルによって弾圧した。イヴァン4世が行った政治テロは400件、あるいは1万件と言われる。

 秘密警察オプリーチニキは、頭から足のつま先まで黒づくめで、「反逆した者を一掃する」という意味で鞭の柄にほうきの形をした獣毛をくくりつけ、更に「ツァーリの敵にかみつく」という意から犬の頭を馬の首に下げていたそうで、多くの大貴族が血祭りにあげられた。

 大貴族はイヴァン4世をグロズヌイと呼んで恐れた。グロズヌイは「恐怖を覚えさせる」という意味であるが、日本では雷帝と訳している。ちなみに、グロズヌイはチェチェン共和国の首都名ともなっている。

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町を襲撃するオプリーチニキ

 1570年にはノヴゴロド市をオプリーチニキに襲撃させ、市民3万人以上を殺害するということまでやっている。ノヴゴロド市がポーランド王と繋がっているのではないかと疑ったために起こった悲劇であったが、これらの恐怖政治を行った結果、経済が低迷。耕作地も放棄される事態に陥ってしまう。これを打開しようと、イヴァン4世は農奴制の強化を図ることになった。

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最初の妻アナスタシア

 イヴァン4世は生涯に7人の妻を娶っている。最初の妻アナスタシアは3男3女の子をもうけたが、結婚14年目に急速に衰退し始め亡くなってしまう。イヴァン4世は大貴族によって毒殺されたと思い、疑わしい人物は片っ端から処刑してしまった。20世紀に入って死因調査が行われ、遺髪に大量の水銀が含まれていたことが判明したが、当時の化粧品には水銀が入っていたので、毒殺かどうかははっきりしない。また、3番目の妻マルファも結婚16日目に謎の死を遂げており、これも毒殺の可能性があり、大貴族に対する弾圧の仕返しだったことも考えられる。

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エリザベス1世

 1567年、イヴァン4世はイングランドのエリザベス1世に婚姻を申し入れる手紙を書いている。この手紙は今でも大英博物館に保管されているそうだ。イヴァン4世はこの時点で2番目の妻マリヤと再婚しており、また例え離縁が成立しても、イングランドにとってエリザベス1世が結婚してまでも貧しく国際社会から孤立したロシアを重視する理由がどこにもなく、プロポーズは失敗に終わった。

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イェルマーク

  領土面では、1552年にカザン=ハン国に遠征、城壁を大砲で砲撃して陥落させ、さらに1556年にはヴォルガ下流、カスピ海北岸のアストラハン=ハン国を征服した。これによって、ヴォルガ川流域からシベリア方面に進出する道が開けた。

 1582年にコサックの首長イェルマークは遠征隊を組織し、シベリア遠征を開始した。ウラル山脈を越えてオビ川流域などの狩猟民を降服させ、さらにシビル=ハン国を征服して、イヴァン4世に献上した。シベリアの地名はこのシビルに由来するが、これによってシベリアはモスクワ大公国の支配下に入り、ロシア人の毛皮商人がさらに東を目指して進出することになった。

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「イヴァン雷帝とその息子」イリヤ=レーピン

 イヴァン雷帝は一種の人格破壊者といった感じで人を殺した。宮廷では陰謀事件や外敵との通謀、ちょっとした不敬などの罪を着せられた廷臣や時には聖職者がその餌食になり、皇帝自らが棍棒を振り下ろしたり、残虐な処刑を皇帝親子が見て楽しんだりしていた。流血を見るのが何より好きだったのだ。そのおぞましい数々の凶行の仕上げとなったのが、1581年11月の皇太子イヴァンを打ち殺してしまった事件であった。

 皇太子イヴァンは背が高く、有能であったので父の雷帝もかわいがっていた。しかし、歳を取った雷帝の耳に、宮廷の中で皇太子に対する期待が高まっていることが聞こえてくると、雷帝は自分を退位させようという陰謀を疑うようになった。またスウェーデンとの戦争がうまく行かないことでも、つい先日、皇太子が父を罵ることがあった。そんなある日……

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息子の遺骸の傍らに座る雷帝

 事件のきっかけはきわめて些細なことで、懐妊中であった息子の嫁の身なりがだらしなかったというのである。その日、あいにく虫のいどころが悪かった雷帝は、癇癪玉を破裂させて嫁の頬を打ち、それが原因で父と息子との諍いになった。雷帝は狂気のような怒りの発作に我を忘れ、鉄鉤つきの棍棒をふりあげ、肩といわず頭といわず、めったやたらに息子を殴りつけた。

 イヴァンはこめかみを割られて横たわっている。雷帝はふと手を休め、血まみれの棍棒を持ったまま、虚脱したようにそこに立ちすくんだ。それから息子の体にとりついて、うつろな眼を宙にさ迷わせている鉛色のひげ面を接吻でおおい、深い傷口をつたって頭からどくどくと流れ出す血を止めようと、空しく試みた。雷帝は仰天し、絶望し、唸り声を上げた。「なんてことだ、息子を殺しちまった!息子を殺しちまった!」

 その後、雷帝は毎夜のようにうなされ、寝台から飛び起きては号泣し、めっきり老い込み、退位して修道院に入ることを考えながら、2年余りして世を去った。


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【 2020/07/21 05:08 】

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世界史のミラクルワールドー16人もの子供を産んだ女帝・マリア=テレジア

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マリア=テレジア

 マリア=テレジアは1717年5月13日に神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生した。彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア=テレジアと妹のマリア=アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。

 マリア=テレジアは若いころは健康で美しかった。今に残る若き日の彼女の肖像からもその美貌は伝わってくる。結婚適齢期になると、さまざまな縁談が出て、一時はプロイセンの王子フリードリヒとの話も進んだ。彼はマリア=テレジアより5歳上、本人は彼女との結婚に相当乗り気だったらしい。しかしある事情から縁談は破綻した。この二人は後には憎しみ合い激しく戦う間柄になる。

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フランツ1世

 実はマリア=テレジアは6歳の時にウィーンの宮廷で見初めた貴族の若者がいた。初恋の人はロートリンゲンから来たフランツで9歳年上だった。結局二人の恋が実り、1736年2月に結婚した。

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マリアとフランツ

 すぐに子どもが出来たが女の子ばかり、3人続き、1741年にようやく待望の男子ヨーゼフが生まれた。その後も、なんと彼女は56年までの20年間に16人の子供を産んだ。つまり妊娠していなかったことがなかったわけで、しかもその間に戦争などの難局が相次いだのだ。ハプスブルク家は多産の家系で有名だが、女王でありながらこれだけの多産なのは驚きだ。

 これだけ多くの子を産んだのには訳がある。父カール6世が後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えていたからだ。

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マリア=テレジアの娘たち

 16人の子供のうち、11人は娘である。4女マリア=クリスティーナ(愛称はミミ)を最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世の息子アルベルト=カジミールとの恋愛結婚を許している。このためマリア=テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。
 
 一方で、身体に障害があり病弱であった次女マリア=アンナや反抗的なマリア=アマーリエの二人を厄介者呼ばわりして嫌った。

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オーストリア継承戦争

 1740年、父カール6世の死で23歳にしてハプスブルク家の家督を継いだが、プロイセンのフリードリヒ2世がこれに反対してオーストリア継承戦争が始まった。この戦争ではフランスの軍事介入でマリア=テレジアは絶体絶命の窮地に立たされた。彼女が最後に望みを託したのはハンガリーの貴族であった。ハンガリー貴族はオーストリアの支配から脱する好機と考え、反オーストリア蜂起を企てるのではないかと危惧されていたが、彼女はあえて逆の行動をとった。

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ヨーゼフ2世

 1741年9月、彼女は現在のブラチスラヴァで開会中のハンガリー議会に、乳飲み子を長男ヨーゼフ(後のヨーゼフ2世)をかかえて劇的に登場し、誇り高いハンガリー貴族に涙ながら支援を訴えた。それに感動した議員から「我らが女王、王冠、祖国に血と命を」の叫びが起こり、6万の出兵その他の支援を取り付けたのである。彼女もハンガリー国法の遵守、貴族の免税特権、行政的自治の保証などを約束した。

 わずか24歳の若妻マリア=テレジアが、乳飲み子ヨーゼフを抱いてハンガリー議会に乗り込んで演説したというのは伝説らしい。この時彼女がハンガリーに連れていったのは3歳の皇女マリア=アンナで、ヨーゼフはウィーンにおいてきた。ハンガリー滞在は議会を説得するのに時間がかかり、6月から9月に及んだが、その間何度かヨーゼフの様子を見にウィーンに戻っている。ヨーゼフを抱いていなかったとしても、美しく若い女王の訴えが、ハンガリー貴族と議会を動かしたことは事実だ。

 だが、その後3度にわたって繰り広げられた戦いは、結局プロイセンの勝利に終わった。マリア=テレジアのハプスブルク家相続は確保されたが、大きな収入源であるシュレジエン地方を失った。

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カウニッツ伯

 敗戦後、「シュレジエン泥棒」プロイセンのフリードリヒ2世への復讐と、シュレジエンの奪回を目指したマリア=テレジアは国政改革に努め、10万8000人の常備軍を設けた。この問題で女帝の意を体して動いたのは、「当時のヨーロッパで最も冷静な頭脳を持つ政治家」と評される宰相カウニッツであった。旧フランス大使でもあった彼は、プロイセンに対する報復戦争を見通して、新たに大同盟の樹立を画策しはじめた。

 カウニッツは女帝エリザヴェータのロシアと同盟した後に、思いもよらぬ外交に出た。ブルボン家のフランスと結ぼうというのである。16世紀末以来続いてきたブルボン家とハプスブルク家の敵対関係を知らぬ人はいない。それが放棄され、両国は同盟関係に入ったのである。1756年のこの「外交革命」が、新しい戦争の始まりとなった。

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マリ=アントワネット

 戦争はオーストリア、フランス、ロシアの大同盟の軍の優位のもとに進められた。1760年から翌年にはベルリンが占領された。もう一押しでフリードリヒ2世のプロイセンは壊滅するところであった。だが、エリザヴェータ女帝の死によりフリードリヒは思いがけず危機を逃れることになった。(詳細はフリードリヒ大王③をお読みください。)

 だが、ブルボン家との協力関係は、その後も続けられ、そして両家の婚姻政策によって強められた。1770年、マリア=テレジアの末娘マリ=アントワネットが14歳でフランスの王太子ルイ(後のルイ16世)のもとに嫁いだのである。

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マリア=テレジア

 厳密にはマリア=テレジアは女帝ではない。彼女はオーストリア大公(形式的には大公妃)であり、ハンガリー国王とベーメン国王を兼ねていた。その期間は1740年から1780年の40年にわたる長期間であったが、その前半の1740~65年は夫のフランツ1世、後半の1765~80年は息子のヨーゼフ2世がその共同統治者であった。

 彼女自身は女性であったので神聖ローマ皇帝にはなれず、夫のフランツ1世が皇帝となっている。フランツ1世の死後はヨーゼフ2世が皇帝となった。したがってマリア=テレジアは形式的には帝妃、そして帝母という立場に過ぎなかった。しかし、夫フランツは政治にあまり関心が無く、子のヨーゼフには政治をまかせきれないと考えていたので、実際に帝国を切り盛りしたのは彼女であった。つまり、実質的には女帝であったので、女帝と呼んでも間違いとは言えない。

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喪服を着たマリア=テレジア

 夫フランツ1世は快活な人だったが政治には関心はなく、それは妻にまかせ、夫としての仕事だけに専念した。 1765年8月18日、フランツは3男レオポルトの結婚祝いのために赴いたインスブルックで、ゴルドーニの喜劇とバレエを鑑賞して帰還した後の夕方、突如没した。

 マリア=テレジアは夫の死を深く悲しみ、シェーンブルン宮殿の一角に夫を偲ぶ真っ黒な漆塗りの部屋を設けたほか、夫が没した地インスブルックに設置された凱旋門にはフランツの死を悼むレリーフを据え付けさせた。また彼女は夫の死後、自身が没するまで喪服しか着用しなくなったという。

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マリア=テレジアの一家

 写真は、マリア=テレジアとその家族の肖像。右の座っているのがマリア=テレジア。左端が夫のフランツ1世。間に立つ赤い服の若い王子がヨーゼフ。このころの彼女はでっぷりと太っている。ウィーンの王宮には籠を人力で上げ下げするエレベーターがあったが、「伝説によると200キロの体重があったマリア=テレジアは、体の重みで綱が切れて落っこちた」そうだ。

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マリア=テレジアの崩御

 1780年11月中旬、マリア=テレジアは散歩の後に高熱を発し、約2週間後の11月29日、ヨーゼフ2世、ミミ夫妻、独身の娘たちに囲まれながら崩御した。病の床では、フランツの遺品であるガウンをまとっていたという。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプツィーナー納骨堂に埋葬されている。

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【 2020/07/17 05:30 】

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世界史のミラクルワールドー3枚のペチコートの共謀・フリードリヒ大王③

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フリードリヒ2世

 フリードリヒ2世は46年に及ぶ統治のほぼ全期間を、3人の女性に対する闘いに費やした。

 フリードリヒがプロイセンの王冠をかぶってからまだ半年とたたない1740年10月、彼はオーストリアのカール6世死去の報せを受け取った。まもなく、彼はヴォルテールに手紙でこう告げた。「皇帝が死にました。これは私の平和の構想を覆します。(来年)6月には、女優やバレーや芝居の代わりに鉄砲、兵隊、塹壕があるでしょう。それゆえ(劇団を招く)契約を破棄せねばなりません。」

 見通しは確実に戦争らしい。だがいったい、それはなぜ起こらなければならないのか?

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マリア=テレジア

 ハプスブルク家の後継ぎは23歳の美しいマリア=テレジアだった。カール6世は、自分にもう男の世継ぎが望めぬと知ってから、この長女に中部ヨーロッパに散在する広大な領土を相続させるため、じつに涙ぐましい努力をはらった。このため、1724年、領土の永久不分割と男子相続者のない場合に女子にも相続を許すことを宣言する「国事詔書」が発表された。カールはこれを領内各地の貴族会議に承認させたばかりか、イギリス、フランス、スペインなどの列強や、ドイツの諸侯たちにも確認を求めた。というのは、先代のヨーゼフ1世(カールの兄)の娘をそれぞれ妻にしているバイエルンとザクセンの君主が、マリア=テレジアの相続に意義を唱えていたからである。カール6世は幾多の貴重な犠牲を払って列国の承認を取りつけ、横槍を押さえるのに成功した。

 事実、彼が死んでマリア=テレジアの即位が現実の問題となった時、約束に反し彼女の相続に公然と意義を唱えたのはバイエルン選帝侯ただ一人であった。マリア=テレジアが玉座に登る道は坦々として、あと何の障害も横たわっていないはずであった。

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 ところが、この年12月、まったく突然、プロイセン軍がオーストリア領シュレジエン(シレジア)へ侵入を始めた。それと同時に、フリードリヒ2世はマリア=テレジアに通告を送った。それによれば、プロイセンは彼女の王位継承を認め、さらに彼女の夫トスカナ大公フランツの神聖ローマ皇帝就任を助け、200万ターラーを供与しよう。そのかわり、鉱山資源に恵まれ、工業の発達したシュレジエンをよこせ、というのである。

 彼が主張したプロイセンのシュレジエンに対する歴史的権利なるものは、まったく取るに足らぬものだった。口実は何でも良かった。彼にとって大切なのは。人口250万の貧しい国に人口100万の豊かな新領土を加えることであった。

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オーストリア継承戦争

 マリア=テレジアはフリードリヒの通告を受け取った時、激怒した。「断じて、断じて寸土の領地も譲りませぬ。」と決意を明らかにし、ただちに挑戦に応じた。が、翌1741年4月、オーストリア軍はモルヴィッツでプロイセン軍に敗北した。かねてハプスブルク家を敵とするフランスをはじめスペイン、バイエルン、ザクセンらはプロイセンに味方し、オーストリアに対しては、フランスと対立していたイギリスが支援したが、経済的援助にとどまり、軍隊の派遣はなかった。

 窮地に立ったマリア=テレジアは乳飲み子(後のヨーゼフ2世)を抱いてハンガリーに赴き、黒い喪服に身を包んでハンガリー貴族たちに抵抗を呼びかけた。その後困難な闘いを切り抜けたマリア=テレジアは、シュレジエンは失ったものの他の家督の相続は認められた。1748年のアーヘン条約で8年におよんだオーストリア継承戦争は終わった。

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ポンパドゥール夫人

 戦後、オーストリアでは「シュレジエンの損失を忘れるな!」が合い言葉となった。マリア=テレジアはわけても、敗戦の屈辱を忘れなかった。フリードリヒを不倶戴天の敵とみなし、シュレジエンを奪回するばかりか、プロイセンを解体するところまでゆかなくてはハプスブルク家に平和は決して訪れぬと信じていた。

 彼女は国内改革を図るとともに、外交手腕を用い、憎むべきプロイセンを国際的孤立へ追い込もうと努力した。彼女は宰相カウニッツ伯の意見を容れ、まず宿敵フランスと結ぶことを考えた。これは予想外に困難な課題であったが、仏王ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の後ろ盾もあって、両国は1756年に防衛条約を締結した。長年にわたる宿敵ハプスブルク家とブルボン家が提携したことはヨーロッパを驚かせ、「外交革命」と呼ばれた。

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女帝エリザヴェータ

 つづいて彼女はロシアの女帝エリザヴェータと同盟することにも成功し、3方からプロイセンを圧する体制をつくりあげた。ただ、イギリスは戦後しだいにプロイセン側へ傾き、フランスと位置を交替した。

 結局、フリードリヒ2世は彼に憎しみを持つ3人の女性に取り囲まれる形になったわけだが、これを「3枚のペチコートの共謀」と呼んだ。ちなみに、フリードリヒはマリア=テレジアを「教皇の魔女」、女帝エリザヴェータを「北方の山猫」と呼び、ポンパドゥール夫人(フランス)である。フリードリヒはポンパドゥール夫人は母親が魚売りの女だったという理由で、「マドモアゼル=ポアソン(魚)」と呼んで軽蔑しきっていたという。

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 フリードリヒは、仏墺関係の転換に驚き、かつ危機を乗り越えるには機先を制するにしかずと考え、1756年8月、6万7000の兵を率いて、ザクセンへ侵入した。以後、フリードリヒはオーストリア、ロシア、フランスの30万を敵として、英雄的な抗戦を続けなけらばならなくなった。

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七年戦争

 プロイセンの最大の危機は1758年から62年まで続いた。58年の夏、フリードリヒはオーデル河畔まで達したロシア軍を抑えはしたが、10月にはザクセンでオーストリア軍に敗れ、「常勝王」の偉名を辱めた。62年には、ベルリンはロシア軍に占領され、敗色が濃くなった。プロイセン王国は瓦解寸前、というところまで追い込まれたフリードリヒは自殺も考えた。

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ピョートル3世

 だが、ちょうどその時、連合国側に異変がおこった。ロシアの女帝エリザヴェータが亡くなり、跡を継いだピョートル3世が、一方的にベルリンから引きあげたのである。その理由は、ピョートル3世のフリードリヒ崇拝、これである。プロイセンにとっては、まったく思いがけない僥倖であった。これが「ブランデンブルクの奇跡」であり、態勢を立て直したフリードリヒは、ついにシュレジエンを守りきったのである。

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69歳の時のフリードリヒ2世

 晩年のフリードリヒ2世は次第に孤独で人間嫌いになり、人を遠ざけるようになっていった。もともと優れない健康もさらに悪化し、心臓の発作や水腫、呼吸困難に悩まされ、一日の大部分を肘掛け椅子で過ごし、1786年8月17日、74歳の王は椅子に腰かけたまま老衰により崩御した。

 彼が死んだ時、プロイセンの国庫には父親から受け継いだ時の5倍以上、5100万ターラーの金が満ちていた。同様に国土もほとんど2倍に、人口は250万から650万に、軍隊は8万から20万に増えていた。この輝かしい治績のゆえに、彼は特に「大王」と呼ばれるようになり、プロイセン人の偶像となった。(おわり)

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【 2020/07/10 05:29 】

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世界史のミラクルワールドー君主は国家第一の僕・フリードリヒ大王②

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フリードリヒ2世

 1733年、フリードリヒは21歳で西ドイツの一侯国の公女クリスティナと結婚した。この年から1740年の即位までの7年間、ベルリンから60キロほど離れたラインベクルス城での生活は、フリードリヒの生涯のうちで嵐のあとの小春日和のように一番平穏、また色彩に富んだものであった。

 独裁者の父王によって実際の政治から閉め出されたいたおかげで、彼は軍務のかたわら哲学、文学、政治の勉強に好きなだけ時間を費やすことができた。気の合う友人が集められ、静かな、しかし知性と活気に溢れた小世界がつくられた。夜など、素人芝居にフリードリヒも加わり、音楽の演奏では彼はフルートを受け持ち、時には作曲もやった。

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ヴォルテール

 この時期に、フリードリヒの最大の喜びはフランスの哲学者ヴォルテールと文通を始めたことであった。1736年、彼はこのフランス啓蒙思想の巨人に初めて丁重な手紙を送り、日頃の賛嘆の気持ちを打ち明けるとともに、今後自分の先生になってくれるように頼んだ。ヴォルテールはこれに対し、いかにも彼らしく次のように答えた。「あなたは余りにお世辞が過ぎます。しかし、人間のように考える君主、人を幸福にしようと願っている哲学者の君主がいることを知るのは、たいへん純粋な喜びであります。」

 皇太子と哲学者の間には、これから文学や哲学を議論する親密な手紙がたえず取り交わされた。2人の交友は、お互いの信頼と尊敬に支えられて、しばらく楽しい密月が続いた。


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『反マキャヴェリ論』

 1739年、フリードリヒは自分の政治思想をまとめる論文を書いた。それは『反マキャヴェリ論』という題で、イタリア=ルネサンスの偉大な政治思想家マキャヴェリを批判したものだった。

 その中で、フリードリヒは「人民の幸福は君主のどんな利益よりも大切だ。なぜなら、君主は決してその支配下にある人民の専制的主人ではなく、第一の僕【しもべ】に過ぎないからである。」と述べた。「国家第一の僕」という言葉はその後、「第一の役人」「召使い」「執行者」と多少表現を変えながら、彼の生涯を通じて啓蒙君主の義務と責任を果たす言葉として用いられた。

 フリードリヒはこの論文の草稿をヴォルテールに送り推敲を頼んだ。ヴォルテールはこれを「マルクス=アウレリウス以来君主が著した最良の書」と褒め称え、彼の斡旋で翌1740年オランダで匿名で出版された。

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サンスーシ宮殿

 1740年、彼は即位してフリードリヒ2世となった。それから、ポツダムにこじんまりしたロココ風のサンスーシ宮殿を造り、好んでここに住んで、自分を「サンスーシの哲人」と呼んだりした。

 なお、サンスーシ Sanssouci とは、フランス語で、「憂いの無い」ことの意味であるので、無憂宮とも言われる。ドイツの宮殿なのに名前がなぜフランス語なのか不思議に思うかも知れないが、フリードリヒ2世がヴォルテールの影響でフランス文化に心酔したため、当時のドイツではフランス語が公用語として使われていたからだ。フリードリヒ2世も日常はフランス語を用いており、ドイツ語は不自由であったと言われる。

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ヴォルテールとフリードリヒ2世

 1750年、フリードリヒ2世はヴォルテールをサンスーシ宮殿に招待した。ヴォルテールはたいへん歓待され、サンスーシとベルリンの王宮にそれぞれ部屋を与えられた。建物も調度も、それから知的雰囲気もべてフランス的であり、ヴォルテールは永住するつもりだった。

 文学や哲学についての会話は楽しかったが、我の強い2人がしょっちゅう付き合うとなれば、衝突が起こらないのがむしろ不思議である。やがてヴォルテールは、フリードリヒの文学の弟子としての謙虚さと王者の尊大さの使い分けにいらいらし始めた。ヴォルテールはというと、彼は利殖の才にもたけていて、株や公債の売買をやって大儲けしていたが、ベルリン滞在中も違法の投機をやり、いかがわしいユダヤ人の仲買人を裁判沙汰を起こしてしまうという始末に、フリードリヒは呆れてしまう。

 次第に2人は衝突するようになり、1752年、2人は喧嘩別れするはめに。ヴォルテールはフランスへ帰り、怒ったフリードリヒ2世は友人への手紙で彼の悪口をさんざんぶちまけた。「ヴォルテールは、私が今まで会った中で、一番意地の悪い気違いだ。彼は書いたものを読むに限る。彼が統治で働いた二枚舌、破廉恥、不正行為は、君にはとても全部は想像できぬだろう。」と。


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フリードリヒ2世の墓に供えられたジャガイモ

 サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世の墓にはジャガイモがお供えされている。何故か?

 アメリカ原産のジャガイモがヨーロッパに伝えられたのは16世紀のことであったと考えられているが、16世紀末から17世紀にかけては植物学者による菜園栽培が主であった。ヨーロッパ北部の主作物は小麦やライ麦であったが、これらの穀物は収量が少なく飢饉が頻発していた。そのためヨーロッパ各国は戦争をくり返し、敵の麦畑を踏み荒らしたり、貯蔵庫の麦を略奪した。

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農民を指導するフリードリヒ2世

 フリードリヒ2世は、寒冷でやせた土地でも生育するジャガイモの栽培を奨励し、それまで休耕地となっていた土地にジャガイモや飼料作物(クローバーなど)の栽培を奨め、自ら普及のために領内を巡回してはキャンペーンを行った。ジャガイモをその外見から民衆が嫌っていることを知るや、毎日ジャガイモを食べて率先垂範し、さらに民衆の興味を引き付けるためにジャガイモ畑をわざわざ軍隊に警備させたうえ、警備兵には畑のジャガイモが盗まれても気付かないふりをするよう命令した、といった逸話が伝えられている。

 ジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫できたし、畑を貯蔵庫がわりにして必要なときに収穫できたので、戦争の被害が比較的少なかった。カロリーも高く、それに茹でるだけで食べられて、そのうえに美味い。ジャガイモ栽培は農民の食糧事情の改善に大きな役割を果たした。お墓にお供えされるジャガイモはドイツ人の感謝の証というわけだ。

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 粗食を旨とした父王と異なり、フリードリヒは美食を好んだ。昼食は8皿、うち4皿はフランス、2皿はイタリア、残りは王の好む、香辛料を効かせた鰻やトウモロコシの粥やベーコン料理であった。また、新鮮な果実も好んだ。夕食は来客のある時以外は摂らなかったが、その時は30皿もあった。このような食事に金をかけたために宮廷の食事予算は、現在の貨幣価値で年間1億円を優に超えるほどであった。

 そんな美食家であるフリードリヒだったが、実はサクランボが大好物だった。ある時、食べ頃のサクランボを食べてしまうスズメに腹を立て、スズメ駆除の命令を下して徹底的な駆除を行わせた。ところが今度は天敵が消えたことで毛虫が大発生し、葉を食い荒らされたためにサクランボが実らなくなるという結果を招いてしまった。フリードリヒはこの結果に自らの非を悟り、以降は鳥類の保護に努めたという。(つづく)

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【 2020/07/10 05:19 】

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