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なまぐさ坊主の聖地巡礼

プロフィール

ホンジュン

Author:ホンジュン
日蓮宗の小さなお寺の住職です。
なにしろ貧乏なお寺ですので、松井秀樹や本田圭佑で有名な星稜高校で非常勤講師として2018年3月まで世界史を教えていました。
 毎日酒に溺れているなまぐさ坊主が仏教やイスラーム教の聖地を巡礼した記録を綴りながら、仏教や歴史について語ります。

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サガイン②ーサガインヒルの「日本パゴダ」①

8月21日(水)

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 サガインの町外れにあるサガインヒルには150以上のパゴダと僧院が点在しており、約6000人の僧侶が暮らしているそうだ。カウンムードー・パゴダを午前11時に出発し、途中トラックバスに乗り継いで、15分でサガインヒルの頂上に着いた。頂上にはサンウーポンニャーシン・パゴダがあるが、僕たちはこれを目当てにこの丘に来たのではない。

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 女の子たちが花を売りに来た。

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 まずは花を買い求めた。実はこの丘にはビルマ戦線で命を落とした日本兵の慰霊碑・慰霊塔がある。今回の旅の最大の目的は、日本のために若き命を犠牲にした英霊をご供養することであった。たくさんの慰霊碑があるので、順に手を合わせていこう。

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 第33師団(通称は弓)と並んでビルマ戦線の主的存在だった四国の第55師団(通称は壮)の碑は、善通寺法主の筆で「慰霊」と刻まれている。合掌

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 「鯨・烈山砲戦友会」建立の碑。「鯨」は壮兵団と同じ善通寺で編成された第40師団の通称で、本体は中支の南昌で終戦を迎えたが、これに所属した山砲兵第40連隊だけはビルマへ転進し、烈兵団の指揮下で山砲兵第31連隊と改称して戦った。

 「鎮魂 戦没戦友の皆さま 安らかにお眠りください」と書かれている。合掌

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 菊兵団の慰霊碑。菊兵団とは第18師団のこと。皇室の紋章である「菊」を与えられたことから「国軍最強」を自負し、他の兵団からも一目置かれていた。第18師団のビルマ方面参加兵力は31,444名であったが、20,000名以上が戦死している。慢性的な物資欠乏の影響はどの部隊でも同様であったが、ビルマ方面に展開していた連合軍が「菊」の名を冠する第18師団との交戦を名誉としていたことも戦死者を増大させた一因とされている。合掌

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 ビルマ人犠牲者の慰霊碑。合掌。

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 団長のF上人を導師に全員で自我偈とお題目を唱え、故郷を遠く離れた異国の地で果てた英霊の方々をご回向した。「鯨・烈山砲戦友会」建立の碑に向かって手を合わせているのは、こちらの方角がインパール方面だからだ。

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 お題目を唱えているうちに自然と涙がこぼれてくる。20歳前後の若者たちが、どんな思いで最後の時を迎えたのだろうか?誰の名を最後に呼んだのだろうか?

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 父や母の思いはどうであったろうか?わが子を遠い戦地に送り出し、一日千秋の思いで息子の帰国を待ったあげく、一通の戦死公報が届いた時の母の思いは。それも敵弾に当たり命を失ったのならまだ納得もいくだろう。しかし、ビルマで戦死した兵士の多くは餓死であった。

 息子が命を落とした地を訪ね、せめて花と線香をたむけてやりたい。親であるならば当然の思いであるが、戦後しばらくの間は外国人の立ち入れは規制されていた。遺族の思いがようやく稔ったのは昭和51(1976)年のことである。(つづく)

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【 2020/03/13 05:35 】

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サガイン①ーおっぱいパゴダ

8月21日(水)

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 昨日泊まったのは「メルキュール・マンダレー・リゾート」。マンダレーヒルの麓に立つマンダレーの最高級ホテルだが、昼間に小休憩をとったのと、あとは寝ただけ。今回の旅では、朝早くにホテルを出て夜9時頃に次のホテルに入る、の連続なので、ホテルの中を見て回る時間がない。

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 今日も朝6時50分に朝食。焼きそばにベーコン、サラミ、ソーセージ、卵という、何の変哲もない食事をとって、午前9時ホテルを出発してバスでサガインに向かう。

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 サガインはマンダレーの南西約15kmにある。そもそもは1322年、バガン王朝が滅びた混乱に乗じてシャン族の王がここを都と定めたが長くは続かず、1364年にはインワに遷都されてしまった。その後、1760年から1764年の短い期間、アウランパヤー王の後を継いだナウンドージー王によって、一時的にコンバウン朝の王都となったが、その後顧みられることはなかった。しかし、パゴダや僧院は次々に建設され、現在では仏教修行の中心地となっている。

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 午前9時50分、エーヤワディー川を渡り、サガインの町に入る。マンダレーとザガインを結ぶ約1.2kmのインワ(アヴァ)鉄橋は、1934年にイギリスが建設したが、第二次世界大戦中の1942年、侵攻してきた日本軍に利用されないようにとイギリス軍の手で爆破された。戦後10年近く経過した1954年、中央に単線の鉄道線路、その両側が1車線ずつ走る共用橋として再建された。老朽化が進んだため、2008年にはこの橋の北側に新しい鉄橋が建設されたが、僕らが渡っているのは新しい橋のようだ。

 右手前方にサガインヒルが見えている。 

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 午前10時6分、カウンムードー・パゴダに到着。高さ45mもある、サガインで最大の仏塔だ。1636年にインワ王であるターロン王が建てたそうだが、別名「おっぱいパゴダ」。確かに女性の胸に見えないことはない。それもそのはず、インワ王の王妃の胸をモデルにして造られたという話がある。

 新たなパゴダの設計の命を王から受けた設計士がいた。ところが、どのような形にしようか迷い、なかなか決められないでいた。そんなある日、たまたま彼の目の前で王妃のロンジーがはだけて、彼女の乳房が見えてしまった。その美しい乳房の形を目にした、設計士はこの形にすることを思いついたんだってさ。

 この話を現地の日本語男性ガイドが、日本から来た男性観光客たちに面白おかしく「おっぱいパゴダ」と紹介してしまったために、日本人の間ではその名が流布してしまったらしい。

 でも、添乗員のO君によると話はぜんぜん違う。第二次大戦中、日本軍はイギリス領インド帝国への侵入をめざしインパール作戦を実行した。詳しいことは次回お話しするが、この作戦に失敗し、インドからビルマに敗走した日本兵が「おっぱいパゴダ」と呼んだそうだ。ミャンマーにはパゴダが山ほどあるが、どれもこれもよく似た形をしている。でもこのパゴダだけ形が違っていて、敗走する日本兵とって重要な目印となった。「おっぱいパゴダ」を目指して懸命に逃げる日本兵にとっては、母親のもとに逃げるような思いもあったのかも知れない。そう考えると、嫌らしい名前じゃなく、悲しい名前だよね。

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 でも、「おっぱいパゴダ」などけしからんと言った奴がいる。ミャンマーの軍事政権の連中だ。そこで、2010年に政府高官が参拝するのにあわせて、サガイン管区政府が3億5400万チャット(約2500万円)もの巨費を投じ、金色へ塗り替えてしまった。それが、この写真だ。

ミャンマーでは通常、数年おきにパゴダの外壁を塗り替える。これはスリランカも一緒。パゴダをピカピカの美しい状態に保つことは仏教徒として功徳を積むことになり、多額の寄付を投じる人も多い。歴史あるパゴダであっても色を変えるというのもよくある話だ。とりわけ、金色への塗り替えは好まれる。
 
 ところが、カウンムードー・パゴダについては違った。地元住民を中心に「白いのが伝統」「急に金色になって落ち着かない」、そして「何より、王妃の胸を金色に塗るなんて失礼だ」などといった大ブーイングが起きたのだ。さらには、「ブッダや王妃が夢に現れ『白に戻してほしい』と訴えてきた」と主張する市民が次々現れるまでに。このような話がSNSを通じて拡散したことも相まって、ついには60を超える市民団体が署名運動を行うに至り、2018年1月に政府へ嘆願書を提出した。サガイン管区政府も高まる反対の声に抗しきれなかったのだろう。ついに塗り替えることとなり、2018年12月から工事を始め、僕らが今見ている白に戻った。

 前置きがながくなってしまった、さあ中に入ろう。

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 銀ピカピカの参道。ミャンマーの人は金ピカが好きなのに、参道が銀ピカなのには何か意味があるんかね。土産物屋さんが軒を連ねているけど、売り子の姿があまり見えない。インドの土産物屋はしつこくまとわりついて来るが、ミャンマーの土産物屋は、「売る気があるの?」と聞きたくなるほど大人しい。

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 花屋さん。日本と違い花束ではなく、花びらを糸で繋いだレイ状のものを売っている。

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 おじさんがひれ伏すようにお祈りしている。

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 ミャンマーにしては珍しく、日本人好みのする落ち着いた仏像だ。大乗仏教なら文殊菩薩と普賢菩薩を脇侍とした三尊像だが、3体とも降魔成道印を結んだブッダだ。上座部仏教には菩薩像はない。

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 ミャンマーの賽銭箱。日本と違い、透明で中身が丸見え。たくさんのお札が入っている。これ見せ金になって、案外いいかもね。うちの賽銭箱も透明なプラスチック製にしよう。


この賽銭箱がいくつもあって、どれに入れるか迷ってしまう。ビルマ文字だから読めないけど、上と下では書かれている内容が違う。ゼイヤ君が「賽銭箱によって行き先が違います」と言ってたけど、全部がこのパゴダの収入になるのではなさそうだ。

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 建物から外に出ると、目の前におっぱいが、いやパゴダが。
高さ46mもあるから、スケールが違う。パゴダの周りを時計回りに歩きながら、参拝していく。

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 こちらは単独のブッダ像。姿が美しい。

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 パゴダを取り囲むようにして土産物屋が軒を連ねている。こちらの店にはたくさんのタナカの木が積んである。このパゴダの周辺で採れるタナカは、質がよいと評判なんだそうだ。

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 こちらは白いお顔のブッダ像。

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 この仏像の前にいる動物は虎だから、月曜日の祭壇だ。奥さんは月曜日生まれなんだ。

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 前にも書いたけど、僕は日曜日生まれ。日曜日を象徴するガルーダだけど、クドードゥ・パゴダと同じように弱々しいガルーダだ。

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 パゴダ建築の由来を書いた石碑だけど、ビルマ語なのでまるっきり読めやしない。欧米人観光客が増えれば、英語表記のものも設置されるだろうけど、僕は英語も読めないしな。学生時代にもっと勉強しときゃ良かったよ。後悔先に立たず、だ。

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 こちらはお参りの準備ですかね。全員ロンジー姿です。

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 こちらはお参りの最中。お経本を開いて読んでますね。
 
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 ちょっと覗き込んでみましたが、何が書いてあるのやらさっぱり。うちのお寺にも毎日これだけの信者さんが来てくれたらねえ。羨ましいよ。おっぱいパゴダからの中継でした。(つづく)

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【 2020/03/10 05:24 】

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マンダレー⑥ーマンダレーヒル

8月20日(火)

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 午後5時45分、マンダレーヒルに向かう。マンダレーヒルは標高236mで、丘全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地だ。歩いて登れば1時間ほどかかるらしいが、そんな時間はないので、2班に分かれて乗合ピックアップトラックの荷台に乗せられた。

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 かなり急な坂道なんだが、運ちゃんは猛烈な勢いで運転する。対向車が来ようが構わない。おまけに後ろのトラックがクラクションをけたたましく鳴らして煽ってくる。今日本で流行の「あおり運転」だ。運ちゃん、抜かれまいとしてスピードをあげる。前から別のトラックが来て、急ブレーキ。その度に我々の身体は前後左右に揺すぶられて、荷台から放り出されそうになる。頼みの綱はつり革だけ。奥さんは楽しそうだが、Wさんの顔色は悪真っ青。

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 恐怖の10分間を耐え抜いて、終点に到着。さあ、これからはエスカレーターで頂上にあるスタウンビー・パゴダに向かう。

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 でも、ここはすでに寺院の敷地内だ。ブッダの住む家なので靴も靴下も脱がなければならない。入り口で靴を預けて裸足になる。生まれて初めて裸足でエスカレーターに乗った。足の裏がこそばゆい。

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 あっという間にマンダレーヒルの頂上に建つスタウンビー・パゴダに着いた。マンダレーヒルで最も古いパゴダだ。

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 夕日を受けて金ピカに輝くタイルが美しい。

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 テラスに出ると、360度のパノラマ。マンダレー市街が一望できる。

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 エーヤワディー川の向こうに夕日が沈もうとしている。

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 記念写真を撮ってもらったが、逆光で顔がよく見えない。まあ、出っ張ってる腹も見えないから、いいか。

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 僕らはエスカレーターを使ったが、エレベーターもあるみたいだ。

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 降魔成道印を結んだブッダ像。相変わらず電飾が点滅している。

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 仏教の本家本元のインドではサヘート(祇園精舎)以外に鐘はない。でも、これは鐘がないと祇園精舎だと納得できない馬鹿な日本人が造ったもの。インド仏教には鐘は存在しなかった。ところが、ミャンマーのパゴダには必ず鐘がある。日本と同じように中国の影響を受けたものなんだろうね。

 ミャンマーの鐘は功徳を積んだ人が衝いてよいとされているそうだ。鐘を鳴らすことで誰かが功徳を積んだことを周囲の人に知らせることができ、聞いた人は「誰かが功徳を積めたのだなぁ、良かったなぁ」と幸せな気持ちになれるんだそうだ。これにより、鐘を衝いた人はさらなる功徳が積めるのだとか。

 奥さん、功徳を積んでもいないのに、鐘を衝いている。

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 ん、お札を咥【くわ】えたでっかいコブラが2匹もいる。ムイヂーナッカウンと言うんだそうだ。ムイは蛇、ヂーは大きい、ナッカウンは2つのという意味。ミャンマー人に人気のある像で、有名な歌の歌詞にも出てくるそうだ。

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 パゴダをバックにヨガのポーズで、名僧が瞑想中。いや、迷僧か?それとも、謎僧か?

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 午後6時45分、またもトラックの荷台に詰め込まれ、恐怖のスピードでマンダレーの丘を降り、夕食会場の「Ko's Kitchen Tahai Restaurant」へ。

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 もちろん、ビールで乾杯!!  タイ風春巻き。毎日同じようなミャンマー料理の連続に飽きていたので、中華風の味付けが美味い。

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 お次は焼き鳥。これも美味い。

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 別のテーブルで作って取り分けてくれたので、鍋料理らしく写っていないけど、メインはタイ風海鮮鍋、タイスキ。

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 〆はもちろんラーメン。大変美味しゅうございました。明日はいよいよ今回の旅のメインであるサガインの日本兵慰霊塔を訪ねる。(つづく)

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【 2020/03/06 05:36 】

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マンダレー⑤ークドードォ・パゴダ

8月20日(火)

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 シュエナンドー僧院を20分あまり見学して、クドードォ・パゴダへ。3分ほどで到着した。マンダレーヒルの南東の麓にあるこのパゴダは、1859年にミンドン王によって建立された。

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 このパゴダには2013年にユネスコの世界記憶遺産に登録されたものが保存されている。

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 これが世界記憶遺産に登録されているパーリ語仏典が刻字された大理石の石版だ。高さ2m、幅1mくらいかな。ブッダが悟りを開いてから入滅されるまでの説教を刻んであるそうだが、これが何と729枚もある。

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 この石版が白い小仏塔に1枚ずつ納められている。

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 730番目の石版には、この「世界最大の経典」が造られた経緯が刻まれているので、730もの小仏塔が整然と並ぶさまは見事と言うしかない。出来るならば仏塔群だけを写真に収めたいのだが、インスタ映えを狙う中国人のカップルがポーズをとりながらうろちょろしている。こらっ、邪魔だ、どけよ。

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 全体像が見えないので、模型が展示されている。中央に黄金に輝くパゴダがあって、その周りを730もの真っ白な小仏塔が埋め尽くしている。ミンドン王は2400人もの僧を集め、仏典を完全な形で大理石に刻ませる作業をさせた。小仏塔群は1860年に建設が開始され、昼夜の別なく突貫作業が行われて、1868年にようやく完成したとされる。

 やたらに2400にこだわっているが、1856年がミャンマーの仏暦で2400年にあたるからだ。仏暦は東南アジアなどの仏教国で使われている暦法で、ブッダが入滅したと信じられている西暦紀元前543年を紀元元年とする。ちなみに、ミャンマーやスリランカでは2020年は仏暦2564年だよ。

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 「世界最大の経典」を作成したミンドン王はその締め括りとして、1871年にマンダレーで第5回仏典結集を行ったそうだ。スリランカ、東南アジア各国から僧侶2400人が集められ、高僧たちによりこの経典が承認された。もちろん、ミンドン王の政治的宗教的立場を誇示するためのパフォーマンスだ。

 高校の世界史ではアショーカ王がパータリプトラで開催した第2回結集と、カニシカ王がプルシャプラで開催した第3回結集は習う。僕は坊さんだから、これにラージャグリハ郊外の七葉窟で開かれた第1回結集も教えていた。

 大乗仏教と上座部仏教では回数の数え方が違うが、2017年にスリランカに行った時に、アルヴィハーラ石窟寺院で第4回仏典結集が行われたという事を初めて知ったのだが、第5回結集もあったんだね~。それどころか、驚いたことに、1954年にミャンマーのヤンゴンで第6結集も行われているそうだ。

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 大理石に仏典を刻んだ文字は写真のビルマ文字だ。もともと先住のモン人が使っていた文字だそうだが、なんだか視力検査表みたいだね。スリランカで使われているシンハラ文字と同じく、全体的に丸っこい形なのには訳がある。

 ミャンマーもスリランカも昔はヤシの葉で作った貝葉に経典を記録していた。貝葉に鉄筆で文字を刻む時、直線だと裂けてしまうので、必然的に丸い文字になったそうだ。これ、孫のなっちゃんに習いました。

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 中央のパゴダが青空に映えて美しい。

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 これまた煌びやかな仏像。金ピカの上に、後ろの後背には赤や緑の電飾が点滅している。パチンコ台じゃあるまいし。日本人には違和感があって、むしろ仏像がちんけに見えてしまうのだが、所変わればで、ミャンマーの人にとっては有り難いんだろうね。

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 このパゴダ、どっかで見たことがあるような。そう、バガンで見たシュエズィーゴォン・パゴダにそっくりだ。それもそのはずで、このパゴダはシュエズィーゴォン・パゴダを模して造られたそうだ。

 ここで、ガイドのゼイヤ君からミャンマーの八曜日について教えてもらい、自分の誕生曜日も教えてもらった。前にお話したんだけど、覚えているかな?曜日ごとにそれぞれに方角と象徴である動物が決まっているんだったよね。パゴダには必ずそれぞれの方角には八曜日の祭壇があって、ミャンマーの人は自分の誕生曜日の祭壇にお参りするそうだ。

 僕は日曜日の生まれ。さっそくパゴダの周りをぐるぐる周りながら、日曜日の象徴であるガルーダ(鳥)を探した。


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 やっと見つけたのが、これだ。ヴィシュヌ神の乗り物であるガルーダにしては、なんとも弱々しく情けないお姿だが、まあ兎も角も手を合わせ拝んでおいた。(つづく)

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【 2020/03/03 05:29 】

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マンダレー④ーシュエナンドー僧院

8月20日(火)

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ミンドン王

 ミャンマーでヤンゴンに次ぐ第2の都市であるマンダレーは、仏教の2400周年の祝祭の機にまさにこの場所に偉大な都市(仏教の都)が現れるであろうというブッダの予言に従って、コンバウン朝第6代ミンドン王により建設された。

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マンダレーヒル

 ブッダが予言したと言われる場所が、標高 236 メートルのマンダレーヒルのふもとである。ミンドン王は、その予言を実現させることを決意し、アマラプラの王国を統治していた1857年1月13日に、新たな王国を創設する勅令を発した。登位記念式典は1858年1月に挙行され、それまでの王都アマラプラは解体されて、象によりマンダレーヒルのふもとの新立地に運ばれた。

 マンダレーの町は1859年5月23日に完成し、翌1860年にアマラプラからの遷都が行われた。しかし、1885年の第3回ビルマ戦争に敗れたミャンマーはインド帝国に併合され、この町はわずか26年で王都としての歴史を閉じた。

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 「A Little Bit of Mandalay」での昼食を終え、午後2時10分一旦ホテルに入り休憩。午後4時40分、マンダレーで最初に訪ねたのがシュエナンドー僧院である。この僧院は、元々アマラプラにあった王宮内の建物の一部だったが、マンダレーに遷都した後はミンドン王の住居として使用され、ミンドン王はその第一夫人としばしばここで過ごしたという。

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 入り口の石柱には「Golden Palace Monastery(黄金の宮殿の僧院)」の文字が。シュエナンドーとは「黄金の宮殿」という意味があり、その名の通り当時は建物に金箔やガラスのモザイク装飾が施され黄金に輝いていたそうだ。

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 釣鐘を支える柱には龍の装飾が。

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 シュエナンドー僧院はミャンマーには珍しい木造建築で、見所は何と言っても屋根や壁面、柱などに施された秀逸な彫刻装飾の数々だ。チーク材をふんだんに使用した建造物には、見事な彫刻がびっしりと施されており、建物自体が一つの芸術作品となってる。

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 建物を前にまず目を奪われるのが、屋根の縁を覆う燭台のように尖った繊細な装飾。写真では分かりにくいと思うけど、尖った部分をよく見てみると手を合わせて合掌する仏像が無数に彫り込まれてる。壁や扉にも植物や神々をモチーフにした彫刻が隙間なく施されており、さらに床下の柱にも龍の彫刻が施されるなど、細部まで手の込んだ造りは見逃せない。

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 中に入ると、高床式で床が高くなっているので、外よりは幾分涼しい。天井は見事な格天井で、金箔が施されている。

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 柱にも金箔が施されており、当時は黄金に輝く、まさに「黄金の宮殿」だったのだろう。ミンドン王は1878年にこの建物の中で息を引き取った。国家の近代化に力を注いだ国王であったが、45人の妃に70人の子供を産ませた「不道徳な王」というのがミャンマー人の評価だそうだ。

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ティーボー王と王妃

 ミンドン王を継いだティーボー王は建物を王宮の城壁外である現在の場所へと移し、個人的な瞑想の場所として使った。マンダレーの王宮は1945年にイギリスの空爆で焼失してしまうが、シュエナンドー僧院は移築したおかげで戦災を逃れる事が出来た。現在残るミャンマーの伝統的な様式の建築物の中でも歴史的価値の高い貴重な建物と言える。

 ティーボー王の隣に座っているのが王妃のスパラヤットだが、異母妹だと聞いて、開いた口が塞がらなかった。いくら母親が違うと言っても、妹と結婚する奴がいるか?おとうさんよりももっと不道徳ではないか。

 これは明らかなる政略結婚で、力が弱く瞑想に耽ってばかりいる若いティーボーを国王にしておいて、スパラヤットを含む保守派が巻き返しを図るためであったようだ。これにより、王位継承資格者約80人が捕えられて処刑され、王国の近代化は挫折した。

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 おやっ、日本のお寺で言えば内陣にあたる所に「女人禁制」の札が。

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 そんなわけで、仏像に近づけたのは、男だけ。ミャンマーの女性達は素直に従っているのだろうが、今時ね~。上座部仏教の教団は女性差別ではないと言っているようだが、明らかに女性差別ですよ。もし、禁制を犯して女性が内陣部分に足を踏み入れたら、どうなるんかね。不謹慎だけど、抗議の意味を込めて一度やってみても、いいんじゃない。

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 1885年、コンバウン朝は滅亡し、ティーボー王と王妃はインドに追放された。インドのラトナギリには現在でもティーボー王の子孫が暮らしているそうだ。

 この仏像はコンバウン朝の最後を見ていたのだろうか?悲しみに沈んだお顔のようにも見えるが、気のせいだろうか。(つづく)

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【 2020/02/28 05:36 】

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